気候変動スタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀をしていましたが、気候変動スタートアップを創業するためスタンフォードにいます。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

スタンフォード9‐11週目:器を問い直す時期

My title

人は、別人のように生まれ変わることができるのだろうか。

学生という身分は、特別な時間だ。何をしてもよいし、何をしなくてもよい。

それまでの自分を白紙にしてもよいし、それまでの自分のゲームプラン通りに進めてもよい。

器を広げるべきか、得手に帆を揚げるべきか。

ざっくりまとめるなら、そんなことを考えていた。

 

スタンフォードに来るとき、いろんな人から、自由になって人生を見つめなおしたらいいとアドバイスされた。

仕事から気持ちを引き離して、何が見えるのか、恐ろしくも楽しみでもあった。

朝8時から授業が始まり、課外活動やイベントや食事会を終えて10時ごろに部屋に戻る。そこから翌日の予習をする。

肉体的にストレッチされ、最高の環境で知的刺激を受け続ける日々は、アナリスト時代とおなじくらい忙しい。

せっかくスタンフォードに来たからには、自分の既存の世界観を広げようと試みねばならない。

流行りのプロダクト・マネジメントからヘッジファンドに至るまで説明会に出てみたり、好奇心の赴くままにクラスを取って、自分のComfort Zoneや既知の世界の外を覗き見ようとする。

ビジネススクールの外の世界にも飛び出しては、友人を作ったり議論したりしようとした。

Empathyと頭脳においてGSBほど優れた学生を集めたコミュニティを見たことがない。

 

濁流のように発見が押し寄せ、感情もエネルギーも乱高下する。

新しい環境で、強度の高い交流を続けていると、どこかで限界が見えてくる。

「一生食べきれないビュッフェ」に例えられるように面白く見えていても、どれが自分にとって大切なのかを問わなければ、生き残れない瞬間が出てくる。

周りに揉まれて、波に呑まれてなお、立ち続ける道標は何なのか、というところにこのプロセスの本旨はあるのだろう。

 

プロジェクトに取り組まない自分は、あまりに無力で、空虚だと感じてしまう。

好むと好まざるとによらず、僕が今日の立場にいるのは、人と違うことをしてきたからだ。

それをいまさらやめたところで、僕は三流の凡人になってしまう。

世界中のあらゆる業種のトップパフォーマーが集まるビジネススクールは、スキルの見本市である。

目移りしながら追いつこうとしたところで、せいぜい不完全な二流にしかなれないし、「あれもできた方がよいから」程度の動機では志が低すぎてモノにならないだろう。

何より、自分はそもそも器用ではないし、一般的なキャリアの尺度・スキルセットからはとうに逸脱してしまっている。

今から主流のキャリアを追いかけるのは、戦略としても筋が悪い。

めぼしいスキルをピックアップするのは、勝ち筋にはなりえず、せいぜいバックストップ程度だ。

 

集団に適応することのできない自分は、自分の世界観をプロジェクトに投影して、そこから人間関係を作ってきたのだ。

プライベートを充足させようとか、いろんな人と交友を楽しんでみようとか、普通の人が普通に喜びを感じ、普通にできることが、できない。

ふたを開けてみれば、肩の力を抜くだけで、一般的な生活ができるだろうと期待したこと自体が間違っていたのかもしれない。

あくまでもプロジェクトをする器としての人格に社会性があっただけで、自分自身の存在価値が極めて小さなものであったことに、いまさらながら思い至る。

意味のあるプロジェクトの器としての自分にしか価値がないのだとしたら、潔くそれを認めて、その中で生きねばならない。

ケニアでの5年間は、その生き方を試す場だった。やり方を僕は知っているし、その大変さも、豊かさも、想像することができる。

器としてしか得られない充足を教えてくれたかつての仲間たちに顔向けできる生き方をできれば、きっと成功できるだろうという確信がある。

 

パロアルトという異端の聖地にいるからには、一流の異端を目指すべきで、それには得手に帆を揚げるしかない。

そのほかのすべての能力とリソースは、極端な能力があれば、買うことができる。

むしろ、この地で異端となりうるには、得手しか見ずに振り切り抜く勇気がなければいけない。

シリコンバレーは劇場型のコミュニティである。一握りのスターが壇上に立ち、世界を動かすという掛け声で数多の才能を世界中から集めてしまう。

そして、本当に世界が変わる。もし、劇場の中心に立ちたいと、あるいは立つべきだとわずかでも感じるのなら、すべてをかなぐり捨てて振り抜かなければならない。

 

偉大な事績を成し遂げるのは、狂気を持つものに限られると喝破したのは吉田松陰だっただろうか。

狂気は、世界観と言い換えてもよいのかもしれない。

独自性の泉源であり、行動の規範であり、エネルギーの焦点ともいえる。

どうやって自分なりの狂気を練り上げるかが、この先の課題になる。

 

狂気の中で生きると決めることは、他者を受け付けないナルシスティックな世界に没入することでもある(自分の生活をブログにしていちいち喧伝しなければならない人間のナルシズムについて今さら言及するまでもないのかもしれないが。。。)。

ずっと自分のことばかり考えていると、自分のことを鏡でまじまじと見つめているような、ぎこちなく気持ち悪いのだが、MBAという場所は、自分のことを考える場であり、自分のことしか考えなくてよい場なので、直感に素直にならねばならない。

いい年して青春の叫びをしている、と冷ややかな目を向ける自分には、もう少し待ってもらおうと思う。

Thanksgivingは、旅行の予定をすべてキャンセルして、読書と考え事に充てることにした。

 

(来学期から2学期にわたって名物授業のDesign for Extreme Affordabilityを取ることになった。他学部の年代もコースも違う学生とクライアントの課題を解決するのは緊張感があり、昔は好きだった直感的なアプローチができるのも楽しみ)

(会計の授業では、Enronの不正を最初に報じたジャーナリストのセミナーがありQ&A含めて活発な議論があった。さらっとベストセラー作家やジャーナリストが講義に来てくれるのは、大学院の醍醐味)

(初日にセクションに約束していたSushi Nightを無事に敢行できた。まだまだオペレーションは磨けるが、ともかくもクラスメートへの約束を果たせて一安心)