ケニアスタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

142-143週目:新興国xソーシャルベンチャーの仕事で大切にしている3箇条

この2週間、冗談抜きで人生で最も大変な2週間だったのだけれど、不思議と心が軽い。

前回のブログでも書いた通り、この困難こそが僕が待ち望んできた試練だからだと思う。

 

試練を乗り越えた結果として、事業が次のフェーズに行ったり、不可能と言われたことが可能になっていくのがベンチャーの醍醐味であり、ひいては、ソーシャルベンチャーが取り組む社会・環境課題の解決へとつながっていく。

領域が新しく、挑戦がアグレッシブであれば、一つの会社の成功が業界のベンチマークとして新しい常識になっていく。

 

そのためには、努力を惜しまずに、辛抱強く仕事をする必要があり、同時に困難に直面してもぶれない軸を持ち続ける必要がある。

言うは易く行うは難しで、ソーシャルセクターや新興国ベンチャーといった、比較的歴史の浅い業界では、経験の蓄積やエコシステムの支援が一般のスタートアップ等と比べて得難く、その実、仕事に携わる個人が精神的な負担を自己解決しなくてはならないことが少なくない。

世間的には、「社会のために」、「やりがいのある」、「すばらしい仕事」をしているわけで、とても「実はお金をもっと稼ぎたくて」、とか「精神的に追い詰められていて」とか、「プライベートで優先したいことがあって」などという地味な悩みを打ち明けられる雰囲気ではない。

さらには、課題の持つ社会性もあって、一般的なベンチャービジネス経営者よりも、数段上の倫理的な潔癖さや人間離れしたコミットを当然のように要求される。

社会の信託があって、投資や支援を受けているので、当たり前といえば当たり前なのだけれど、コントロールが難しいもののひとつだ。

 

前置きが長くなってしまった。

ケニアに2017年9月にやってきてから3年近くが経ち、仕事の一区切りがつきそうなタイミングで、一度何がこれまで自分を支えてきたのか、価値観のようなものを紹介したいと思う。

たぶん、3年、5年、10年単位で振り返ってみると、全然違うことを言っているのではないかと思うけれど、挑戦のログを残す意味でも書いてみたい。

 

処事光明

三菱グループ共通のバリューである、三綱領に挙げられているもの。

ようすれば、正しいことをする、フェアプレーで臨む、というもの。

ソーシャルセクターと聞けば、ソフトで優しいイメージがあるかもしれないが、結局のところは人間のいるところ。

泥沼もあれば、悪意もあれば、無知もあって、大変な思いをすることが何度となくある。

そのために生存をかけて戦わないといけない場面と、忍従する場面とをギリギリの倫理観で決めないといけない。

ビジネスやら投資業なら当たり前の日常は、ソーシャルセクターでもおなじ。

「われわれは常に社会正義とは何かということを念頭において行動しなければならない。不正には正義を、権謀には正直をもって、われわれは行動すべきである」という岩﨑小弥太の演説の通り、目の前の困難や理不尽、時として暴力に対して、「正しさ」を軸に判断していかないといけない。

普通のベンチャーでも難しい新興国で、まして複雑な社会課題まで盛り込んで解こうとしているのだから、当然難しい。

生存のために目先の最適解を本能的に選択したくなる時に、この「処事光明」という言葉に立ち返る。

中長期での一貫性を見失えば、あっという間にミッションドリフトしたり、身動きが取れなくなってしまう。

 

堅忍不抜

志堅く、耐え忍んで決してあきらめない心。

ソーシャルセクターは心優しい人を集めがちなのだけれど、実際Human Issueほどめんどくさい話はないわけで、ハードシングスは普通にある。

さらには、善意ほどややこしいものもなくて、数多の無知な善意に振り回されて理不尽な目にあったりすることも日常茶飯事。

さらに言えば、新興国xソーシャルなんて、プロフェッショナルの世界でふるい落とされて流れ着いたような人も少なくない中で、忍耐はとても大切。

ただでさえも社会的インパクトはビジネスインパクト以上に時間がかかる中で、「もう無理だ」と思うときに、「でもやるだけのことはやろう」と奮起する根性なしには、目標は達成できない。

確か明治維新の偉人の座右の銘だった気がするけれど、自分に善意があるからといって簡単に社会は変わらない。

変わるまであきらめない人だけが、確たる仕事が出来るのだと思う。

 

見性成仏

禅語の「直指人心、見性成仏」から。

もともとの意味は、「悟りに至るためにあれこれ試してみようと心を煩わせるのではなく、自分のありのままの心に直接向き合うことで、仏性は顕れる」というもの。

辛いことは確かにあるのだけれど、僕はつらい経験を通じて見える丸裸の自分の姿から学ぶこと、そして限界ギリギリを攻めてなお心に残るものこそが自分本来の姿だと信じている。

これは他者にも当てはまるのだけれど、世の中最善のみにこだわって求道者のように仕事をする人ばかりではないので、どちらかというと自分に向けるべき視線。

 

仕事の上でのチャレンジは自分と向き合う最良の機会だ。

僕は器用貧乏といわれるタイプなので、ブチギレ寸前で仕事している余裕のない自分に巡り合える時にこそ、意思決定一つ一つに細心の注意を払っている。

何でそんなに仕事・研究に没頭できるのか、とこの10年ずっと聞かれている気がするけれど、それは自分の本来の姿を確認するための絶好の機会だから、ということになる。

「アラサーになって自分探しなんて、ただの中二病」という指摘には、甘んじて目をつぶります。

正直なところ、仕事の達成感で流す涙以上の幸福って、この世にあるのだろうか。