気候変動スタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀をしていましたが、気候変動スタートアップを創業するためスタンフォードにいます。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

スタンフォード17-25週目:変えること、変えないこと

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1月・2月の振り返り

1月末はKnight Hennessy Scholarのリトリートで、Santa Cruzにあるリゾートにいた。

今回は、直近数年のCohortが集まる形で、2泊3日にわたって語りつくす。

いつもながら、刺激的だし、全身全霊をぶつける形だった。冬休みに考えていた気候変動のThesisの種を、この間ぶつけまくって形にした。

2月は気候変動を自分なりにテーマとしてとらえ直し、農業と水というサブテーマの中で、リサーチをした。

幸運なことに、自分と補完的な視点を持つ優秀なパートナーに恵まれた。

たぶん50時間くらいかけて、仮説を組み上げた。彼がいなかったら、たぶん半分もできなかったと思う。

スタンフォードで授業を取っている教授や過去仕事で縁のあった専門家にもアドバイザーになってもらい、領域の知見を頭でつないでいく。

インタビューやレクチャーでのQAを使って、さらに点と点をつなげたり、つなぎ直したりしていくのは、とても面白い(そして疲れる笑)。

ここから夏まではリサーチをしていくことになる。仮説の枠組みを作るのも大変だが、淡々とチームでリサーチをするためにどうしたらいいのか。

あるいは初期の段階だからこそ、見落としや新しいアングルを加えられないか、そんなことを考えている。

いざやってみると、いろんな事が起きる。日常が違って見えてくる。いろんな人が向こうから声を掛けてくれる。

Al GoreやBrian Cheskyのレクチャーもそれぞれ得るものがあった。生で対峙するから得られる感覚的なものは、事業について考えるときにことのほか大切になるのかもしれない。

宣言してやってみて、まっすぐに課題を捉えて、軌道修正を繰り返す道のりを、胸を張って諦めることなく、続けられるか。

うまくいくかは本当にまったくわからないのだけれど、たぶん今の自分にやらないという選択肢がない気がしている。

問いに対する誠実さは、遠くを照らす道しるべになるのではないか。

 

変えること、変えないこと

もうひとつ、今考えていることについて、書いてみようと思う。
冬休みの間、自分の人生を振り返って何が大切であったのか、そしてこの後何を大切にして生きるべきなのかを考えた。
スタンフォードを始めとするカリフォルニアの空気というものは独特のものがある。
学ぶことへの貪欲さと変化への素直さが求められた20代から、その経験を踏まえて、人生の土俵に立って勝負をしかけることを求められる30代へどうすれば転換することができるだろうか?


ただ言語化していくだけではなく、自分の根底にあるものを全て疑いながら切り崩し必要なものだけを抜き取って、あとは何もかも変えていく。
これまではどこかかつての人生に戻れるような気がしていた。自分の中に普通さを見いだして安心する自分がいた。
それを今回はバッサリと殺してしまおうと思う。
自分の中の尋常ならざる部分をさらに研ぎ澄ましていくことは、帰る場所を捨てることでもある。
でも、ここまで粘り強く続けてきた結果として、次の高みが見えた今、もはや守りに入ることも懐かしい世界に後ろ髪を引かれることもあってはいけないのだと思う。
スタンフォードは自分が捨ててきた一般的なメインストリームキャリアのひとつの頂点であると同時に、自分が目指してきた新しい世界を実現するための特異な才能が集まるハブでもあり、どちらの面を見るかによって悩みは尽きない。


自分が何者なのかをもっとも受け入れていなかったのは自分だったということに気づいたとき、踏み込んでいく勇気が出てきた。
ナイトヘネシーの傑出した仲間たちと時間を過ごす中で、教科書的なリーダーシップよりも、メディアに乗るような実績よりも、様々な不条理に対する繊細な気持ちよりも、何よりも自分が最もAuthenticであることだけに注力するしかないのだと覚悟を決めた。


過去の経験に学び、謙虚に自分の無力を受け入れる姿勢は歴史に対する誠実さだともいえる。
だが、リーダーとしての誠実さは過去ではなく未来に対してなされるべきものだ。過去にとらわれず、ただ前をのみ見つめて、楽観的に無邪気に挑戦を続ける。
執念こそだ、世界を舞に進めるのではないだろうか。


未来がどうなるかは誰にも分からない。
過去と関連付けて未来はどうなるのか、あるいは自分の努力の量を他と比べて成功する可能性が高いのか。
そうした、なまやさしい声がけを自分にすることもできない。
ただ、ありのままをつけつめた先にどのような結果が生まれるのか。
自分の考えや行動願いが表現に値するものだということだけを信じて、ただただ無心でサイコロを振っていきたい。