ケニアスタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

258-259週目:Komaza最後の日に思うこと

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とうとうこの日がやってきてしまった。

始まりがあれば終わりがあるのは、世の常なのに、どうしても実感できない。

毎日の延長に明日があり、今日の頑張りが明日の仕事に繋がっていく実感を持って仕事をしてきた5年間が、今終わろうとしている。

「明日の心配をしなくて良い」という事実が受け止められない。

仕事が僕を放してくれないのではなくて、僕が仕事を離れられない感覚。

この半年間はTransitionのために必死になっていたのが、気づけばチームは万全の態勢で、自分だけ何の心の準備もできていなかった。

「而立の年」なんて言いながら、結局は自分の存在意義を仕事という外部に求めていた心の弱さに腹が立つ。

 

何も見えないまま飛び込んだ5年前

Komazaに入社したのは、社会人3年目の2017年10月だった。

人一倍野心が強く、ソーシャルセクターで何かを成し遂げたい、という強い気持ちだけが先行して、どうしたらいいのかも、何に取り組むべきかも、正直全くわかっていなかった。

ただ、貧困と気候変動、そしてアフリカという21世紀の中心を担うであろうテーマを現場で感じながら、スタートアップの強烈なプレッシャーで自分を追い込んだときに、何かが見えてくるのではないか、という直感だけがあった。

オファーレターにサインした時、僕はケニアどころか東アフリカに行ったことさえもなかった。

最低限の生活費1,000ドルの月収で首都から遠く離れた人口5万人の僻地に住む。

とにかく自分を試したかった。自分の中にある野心や狂気を思い切りぶつけられる挑戦がしたかった。

オリジナルな仕事を自分で成し遂げる自信がなかったからこそ、オリジナルだと思った事業に飛び込んで、学生時代から10年以上事業を続けてきた起業家から何かを学び取りたいと思った。

 

そこからの激動の日々は、「想定通り想定外」としか言いようがない。

日本では有名な三菱商事も、海外に出ればMBBや投資銀行と比べて、何のブランド価値もない。

ゼロから自分の能力を認めさせ、自分のポジションを確立しようと必死になった最初の12か月。

初日から会社のビジョンを達成するうえでのファイナンスの役割をピッチした。

当時の「オペレーターからアセットマネジャーへの転換」という構想はそのまま5年間で実行できた。

ドナー周りの契約交渉やプロジェクト管理など慣れない仕事をしながら、資金調達をリードするようになった2年目以降。

自分一人では到底さばききれない仕事を何とかするために、自分のチームを持ったはいいものの、マネージャーとしてのトレーニングをろくに受けたことのない自分は、プレーヤーとしての自己の延長上で間違ったマネジメントを繰り返しては苦戦した。

シリーズBの資金調達は過酷を極めた。

生き残るために日次でキャッシュを管理し、18か月で20件のブリッジファイナンスをまとめながら、2-3年かかって当たり前と言われる開発銀行からのファイナンスに挑んだ。

生きるか死ぬかの仕事は、不可逆的な経験である。自分の限界にぶつかって、さらにそれを乗り越えざるを得ない状況で、初めてわかる自分の本性があった。

余裕がなくなり、生々しい感情にのまれたとき、職業人として最も創造的になれた瞬間があった。

 

生きるか死ぬかから、事業づくりへ

アフリカTop5に数えられたシリーズBが終わるとすぐに新しい仕事に取り掛かった。

長期のファイナンスが必須の林業において、Business Modelと同じくらいFinancing Modelが大切になる。

その転換点となるカーボンクレジットと証券化、さらにはコーポレートの強化、あらゆるイニシアチブを通じて、これまでの学びを事業に還元する。

資金調達を通じて理解した事業の課題を、片っ端から片付けていく。

自分のサポートをするためのチームではなく、優秀なマネージャーが自律的に活躍できる場を作り、チームで成果を出す。

プレーヤーとして身に着けた狂気と自信を手放して、全く違う働き方を模索した。

コーチングなどの力も借りながら、当たり前だと思ってきた原則論や思い込みを一つ一つ確認していくなかで、過去に周囲がいかに自分をEmpowerしてくれたのかをようやく理解した。

マネジメントとしての自分はまだまだ未熟だけれども、自分ではなくチームを主語にするという出発点には立てた気がする。

ベンチャーでの日々を振り返ると、人を突き動かすのも、限界になるのも、エゴの存在で、どうすれば人一倍強い思いを持ち続けながら、Selflessでいられるか、という精神的な課題にぶつかる。

ベンチャーを動物園に例える人もいるが、Komazaでの生活は次第に自分にとって一種の禅道場になった。

 

チームと仕事をする過程は、「自分にしかできない仕事」を減らしていく過程でもあった。

様々な可能性を同時並行で追求しながら、きっかけやクロージングといった節目を作っていく。

難しい状況であっても背中を任せられる仲間の存在が、なにより大切になる。

情けない話だが、自分は任せているつもりでも、どこか頭の片隅でオーナーシップを手放そうとしていなかったように思う。

本当に何度か限界を超えてしまった時に、当然のようにチームが”Don't worry! I got your back!"と声をかけてくれて、申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、ようやく任せること、信頼することについて学ぶ契機を得た気がする。

彼らの存在があるからこそ、僕はKomazaを彼らに任せ、離れる決断ができた。

 

Komazaの可能性と自分自身の可能性

金融をツールとして社会に資するという意味で、今のKomazaでの仕事は、数千年単位でビジネスモデルが変わって来なかった、イノベーションから最も遠い林業の事業モデルを根本から変えるポテンシャルがある。
歴史的に、大地主や資本家、政府や投資ファンドが巨額投資をして運営してきた林業を、世界の貧困層10億人の60%を占める零細農家にも開放することで、経済発展から取り残されがちな非都市部の貧困を撲滅し、同時に世界最大の森林喪失源であるアフリカの森林回復に貢献するKomazaのモデルは、これからさらに必要とされるだろう。

 

僕のキャリアをつくり、育ててくれたKomazaには心から感謝している。

タフな交渉を切り抜け、不可能な案件を無謀なタイムラインで押し通してこれたのは、現場で日々愚直に素晴らしい仕事をするチームがいたからだ。

彼らに恥じない成果といえるか、投資家からのオファーは彼らの努力に報いる内容か、自分のなかの絶対的基準としてきた。

色々な出会いがあった5年間、とりわけ、投資家には夫婦漫才と言われるまでになった、起業家のTevisとの出会いは、かけがえのないものだった。

アフリカベンチャーのなかでも異端の存在として、常に投資家のスコープ外をさまよいながら、命を削って資金調達を続けた日々。

後悔しないことだけを目標に、全力でぶつかっていくなかでしか生まれない人間関係があることを学んだ。

一人のプロとして、Trusted Advisorとして、至らない自分を背伸びさせながら、何ができるのかを教えてもらった。

事業を教え導くには、経験もスキルも足りないこととばかりだったが、自分からも何かを彼にのこせたのだろうか、と今の僕は自問する。

 

(Founder & CEOのTevisと工場の落成式にて)

 

原点からの再出発

「まだできることがたくさんあるのではないか?」という問いは、新興国ベンチャーという可能性の世界に生きる自分にとっては、残酷な問いだ。

やれることはいくらだってある。やれることがなさそうなところにも、常に可能性はある。

だから、今回の意思決定と、Komazaに僕が見出す可能性は、無関係だ。

チームがいるから胸が裂ける思いがするし、チームがいるから任せられる気がする。

スタンフォードに行く話をしたときに遺留するのではなく、頑張ってこいと送り出してくれた彼らの心意気に応えられるのか。

「事業の構想やビジョンを聞くのを楽しみにしている」と言ってくれた彼らに恥じないアイデアを生み出すことができるだろうか。

Komazaを離れてなお、僕の真善美の基準には、Komazaの仲間たちの存在が残り続けるだろう。

 

ここにきて、僕は原点に立ち戻る。

ケニアでベンチャーに参画する時に抱いていたまっすぐな野心を、僕はまだ持っているだろうか。

なんでも学んで、自分のものにしてやろうという貪欲さを失ってはいないだろうか。

自分にも何かができるはずだという根拠のない自負と、自分にはまだまだ何もできないという悔しさと、その絶え間ない葛藤と向き合えているだろうか。

思い切って、次の一歩を踏み出そうと思う。

(やっぱりこの写真が一番気に入っている)