気候変動スタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀をしていましたが、気候変動スタートアップを創業するためスタンフォードにいます。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

書き続けること、行動すること

My title

リーダーは語り続けなければならない、とその昔ソーシャルアントレプレナーシップの授業で習った。

リーダーになれるかはわかっていなかったけれど、私的な文章を書き続けて10年以上になる。

ときに衝動的に、ときに義務的に続けてきたブログを読み返しながら、内省し、未来について構想を膨らませる。

それでいて、なんで書き続けているのかわからなくなることがある。

冬休み中に、懐かしい友人たちと話す中で、感じるところがあった。

 

難しい挑戦をしようと、身の丈に合わないことばかり考えてきた。

自分一人ならまだしも、チームを持ち、同志ができ、色々な人に助けてもらって、できることが少しずつ広がってきた。

それにつれて、恐ろしいと思うことも増えた。

自信をもって語った未来が実現しないかもしれない、関わった人を幸せにできないかもしれない、大切な仲間を失ってしまうかもしれない。

理性はたびたびそう警告してくる。

 

歴史を読めば、現実の厳しさと運命の酷薄さはいやというほど分かる。

分別がある人は、無謀な挑戦はしないものだ。

愚かなる人間の一人として、自分にも失敗の可能性が常につきまとう。

では、果たして、人の愚かさとは、無意味なものであろうか。

 

当事者として生きる歴史は、書物に立ち現れるものとは質感が異なるものだ。

歴史に残るのは行動であり、言葉であろう、でも歴史を生み出す最も根源的なものは、当事者の思いであり願いではないか。

実はそれだけといっていいかもしれない。我々がなす行動の、発する言葉のどれだけが、我々そのものを表現していようか。思った通りを現実にしてくれているだろうか。

お客さんだったり、コミュニティであったり、仲間であったり、大切な人との約束を守れなかったら、自分には何の価値も持たない、無益無用の存在だというヒリヒリとした緊張感なしに、プロジェクトをすることはできない。

ただ、あるべき未来のために何かをしたいという瞬間の、企画者としての自分の気持ちは、偽りのなく実存する。

成功の可能性が100%でない以上、企画者は実はそれ以外の確からしさに拠って立つことはできないのだ。

現実は思い通りにはならないかもしれず、行動は願いをかなえてはくれないかもしれない。

だからこそ、自分の拠って立つべき動機を大切にしなければならないのではないか。

届かなくとも、やり続けなければならないのではないか。

 

多くの場合、必要なのは、最初の一歩を踏み出す勇気だけだったりする。

成功するかや他人がどう評価するかは別として、まずは一歩を踏み出せる人間にならないといけない。

スタートアップのアイデアは、しばしば、業界の構造や歴史的必然といった、理論的に裏付けのある考えから生まれる。

ただ、同時にスタートアップの仕事を乗り切るうえで、やりたいという感情は、忘れてはならない。

ロジックに基づくアイデアを発信するだけでなく、自分の感情を素直に伝えられねばいけない。思い付きを気軽に行動に移さねばならない。

ロジックも感情もため込むのではなく、垂れ流すことで、世界がどう反応していくか、そこに面白さがある。

非線形的な結果を得るためには、線型的な、予測可能な未来がないところで、一歩を踏み出すしかないのだ。

それを繰り返すことで、自分の想像力の限界からどんどんと遠くに行くことができる。

踏み出す勇気は、勇気であって勇気ではない。

何が起こるか分からないのだから、実は自分の運命について何の決定もしていないのだ。毎日ハミガキをするような、ただの行為であり、それが日常になってしまわねばならない。

 

善意から善行を始めるものが勇気ならば、続けるのが知恵だ。

ファイナンスやビジネス、歴史や哲学の古典は、知恵を授けてくれる。

でも、それを善い未来に変えるのは、勇気しかない。

20代を知恵にささげたからこそ、30代を勇気にささげたい。