非線形的な変化をもたらすもの
全体の戦局なり結果が見えない時に、注目すべきははやり次の一手であろう。
本当は、だれしもが未来に対して確証を持って次の一手を決めたいと思っている。
だが、実際には、確証を持てる意思決定など、ほとんど存在しないし、最も価値のある意思決定は不確実性の中で生まれる。
次の一手に何を期待するか、どこまでの熱量を込められるか、あるいはあえて軽くとらえてみるのかは、本人の裁量に任せられる。
複数の未来の結果を比べることはできず、人が不確実性を受け入れるというとき、本当に辛いのは最悪の結果を受け入れることではなく、結果に至る道のりの不安に耐えることかもしれない。
人は本能的に、未来を予見し、結果をコントロールしたいと欲する。
それでいて、いざ未来が手中に入ると、今までとは違った何かを求めたり、非線形的な変化を期待してしまう。
思い通りの現実を手にする充足感と、未知の神秘に遭遇することへの期待感は、等しく存在する。
未来に対する人の期待と不安は、自己矛盾を抱えている。
意義の大きい挑戦に、確かさは存在しない。
だからこそ、判断の確かさではなく、正しさにコミットしなくてはならない。
ただ前を向いて、進み続けなければいけない。
判断や行動の結果に未来があるならば、判断や行動の指針が正しければ、未来もまたそれに従うはずである。
短い目でみて反応が薄くとも、一貫してやり続けること、あるいは途中でやめないことには価値がある。
自分を信じるというよりも、指針と自らの前向きさ、善意を信じて、行動し続けるしかないのだ。
続ける根拠は何だってよいのかもしれない。思考でも、研究でも、感情でも、直感でも、経験でも、あるいは友人の言葉でも、やめないための理由はなんだってよいはずだ。
非線形的な変化は、確からしさの先には存在しない。
計画的な飛躍もおそらくまた存在しない。
人がこれほどまでに避けたがる不確実性の重なり合いこそが、非線形的な変化の兆候なのだ。
進み続けた物理的な距離と偶然の産物で、想像以上の成果は生まれる。
厳しく自らを問いながら、距離を伸ばし、偶然が起きやすいように工夫を積んでいく。
謙虚に自問自答を重ねながらも、いじけない。
感性を鋭利に保ちながらも、恐怖に対して鈍感であり続ける。
立っていられなくなってしまいそうなときほど、立ち続ける執念に意味がある。
平気で歩き続けられそうなときほど、立ち止まってみる勇気に意味がある。
そう言い聞かせて、進んでいきたい。