ケニアスタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

何のために働くのか

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30代に突入して、周囲の友人たちが世に言うところの「落ち着き」を持ってきた。

寝食を忘れて馬車馬のように働くことが求められたフェーズが終わり、下積みを活かして慣れないながらもマネジメントとして責任を担うようになる。家族ができたり、趣味に向ける余裕が出てくる。

無限大に思えた人生の可能性が少しずつ輪郭を示すようになり、できること、できないことの境目を探りたくなっていく。

 

そんな人生の時期に大学・新卒時代と変わらず生活の大半を仕事や研究に費やしているので、友人からは「なんでそんなに頑張れるのか?」とよく尋ねられる。

いつも「まだまだやることがあるから」とか「早めに準備しておきたいから」とか「ほかにやることがないから」とかいってごまかしてきたが、真面目に答えようとすると案外難しい。

事業へのこだわりや自己変容へのコミット、人と社会への関心、そして仕事へのアプローチは、自分にとってはごく自然なことで、人から指摘されて初めてその特異さを認識するようになった。ようやくこの5年くらいのことだろうか。

 

ソーシャルインパクトに興味がある人はたくさんいても、フルタイムでやる人は少ない。

情熱や好奇心には、ぶつける対象以上に、熱量を保ち続けるための器(Vehicle)が必要である。

大きなエネルギーを持っていても、最終的に行動や仕事に転換する仕組みや継続して取り組む方法がなければ、数年で「若き日のいい思い出」になってしまう。

大学を卒業した時の自分にも、自分もそうなるのではないか、という不安があった。

仕事で自分を追い込みながら、インパクト投資家や社会起業家にラブレターを書き、面談を申し込み、カンファレンスで真っ先に質問して名前を覚えてもらった。

遊ばず節約して資金をため、1年は現場でタダ働き仕事できる貯金を作った。

最後は気持ちだと、後ろ髪を引かれるようなことがないよう、あらゆる心の重石を切り捨てた。

今となっては極端なやり方に思えても、当時の自分は、行き場のないエネルギーを乗せる器(Vehicle)を何とか作ろうとしていた気がする。

 

行ったことのない国に移住して、アフリカの片隅のアーリーステージベンチャーに手弁当で突撃する、不可能といわれた資金調達でコロナ禍を乗り切りケニアのベンチャー投資総額の10%を調達する、業界でまだ試されたことのない企画を立て新しいプロジェクトを複数同時に並走させる、振り返れば「あるべくして起きた」イベントも、当時は必死になって考えて、行動して、挑戦していた結果が積み重なったものだ。

自分がもっともストレッチされ、追い詰められ、結果的に最も研ぎ澄まされた、創造的な仕事ができるようになる環境をセットアップする。

ひとつの目標が達成されると同時に次の目標に野心を燃やす。次の目標への解像度を上げるプロセスとして、目の前の課題に取り組む。

毎年一度は、自分のいるフェーズや人生のテーマについて、メンターや友人からもアドバイスをもらいながら、仕事と同じように丁寧に構造化し、考え、仮説を修正する。

国際機関やファンドではなく、ケニアのベンチャーに飛び込むと決めた時、「神経質でありながら、起業家的な面もある自分が、全く想像できない場所でゼロから世界のだれもやったこのない仕事にぶつかったとき、何を感じ、生き延びるためにどんな能力を身に着けるだろう?」という問いを立てた。

半ば本能的に確立したプロセスを、僕はこれからも回し続けていくことになるのだろう。

 

自分の限界を認識し、超えていく過程において、全力投球以外の努力は無意味になってしまう。

限界を知れば、あきらめるのではなく、自分の得手を伸ばし、苦手を補うことができる。

さらには、自分の可能性を最大化できるように、チームをつくれるようになってくる。

不思議なことに、自分の限界を超える仕事には、自分を超える才能が続々と集まってきた。

ハードワークな20代がマネジメント昇格後に陥りがちな、スーパープレーヤー症候群も自然に克服される。自分の限界と近いところで仕事をする中で、自然と人と働く意味を考えるようになり、チームへの感謝が生まれるからだ。

様々な危機を乗り越える中で、最後は自分しか信じられないと疑心暗鬼になっていた自分に、”I got your back"といって支えてくれるチームができたとき、人生観そのものが揺らぐ。

最高のチームを作る第一歩は身の丈に合わない挑戦をすることだと学んだ。

旗を立てて声を上げれば、時間はかかっても世界がそれに応えてくれる、という確信が今の自分にはある。

 

全身全霊を傾けるから、想像を超えた仕事ができる、というのが僕の20代の信条だった。

情熱と好奇心の赴くままに、生活のほぼ全てを仕事と研究につぎ込めたのは、やればやるほど自分と他者、そして社会について理解が深まっていったからだと思う。

辛いことがあっても、そうした経験を通じて人と社会の新しい側面を学んだし、よく考えたうえでの地道な努力は想像をはるかに超える成果を生み出して、時折くじけそうな自分を励ましてくれた。

社会と自分の境界線がはっきりして、自分がどうすれば個人としての充足と社会への価値を、バランスよく生み出せるかが見えてきた。

その意味で、自分にとっての仕事は、世界との対話のようなものであり、同時に自分との対話でもある。だから、まだまだ続けていける。

 

今だから言えるけれど、2-3年前までは、メインストリームの金融よりも給料も安く、私生活が破綻しがちでリスクばかり高いソーシャルセクターという業界にいる自分を疑問に思うこともあった。

周りの友人たちが、同じように努力して、昇進や高給やステータスというわかりやすい成果を上げたり、早くからパートナーと立派に家庭を築いているのを見て、自分で自分の価値を証明しなければいけない黎明期の業界で、明日をも知れず日々汲々としている自分は「なんなのだろうか」と途方に暮れることもあった。

取り返しのつかない、キャリアの判断をしているのではないかと、ケニアのド田舎で頭を抱えたり、身の丈に合わない挑戦を後悔したことも何度もある。

 

けれど、そうした時ほど、なぜか昔の自分の仕事に励まされることが多い。

大学時代に取り組んだ学部留学支援で関わった人たちとつながることも増えてきた。

自分が企画した説明会で留学を決意した人が、海外大に進学して三菱商事に就職してエレベーターで声をかけてくれたり、温かいメッセージをTwitterでくれたり、仕事相手がかつてのイベント参加者やブログの愛読者であったり。ちょっとした奇跡に勇気をもらっている気がする。

自分の中で明確なプロジェクトへの情熱が湧き上がってきたのが、10年あまり前なので、ようやく色々な縁が一巡してきたのかもしれない。

自分が「世界との対話」だと思って黙々と投げかけてきたプロジェクトに、小さくとも反響があったのだと知るたび、広い意味での「仕事」がいかに自分の人生を豊かにし、導いてくれるものかを思い出す。

新しい企画を考えやるべきか悶々とする孤独な時間も、「本当にできるだろうか?」と半ば自問しながら強気でアドバイスを求めに行くときも、「始めたからにはやるしかない」と突っ込んでいくときも、信じるプロジェクトのために働いたからこそ得られた経験が原動力になる。

 

大学時代のメモに、次のようなことが書いてあった。

「何のために働くのか?」という問いに対する答えは、ここにある気がする。

事業という言葉をプロジェクト、あるいはプロジェクトが積み重なった総体と置き換えたほうが良いかもしれない。

 

人生の目的
人生とは、事業の積み重ねである。
僕にとって、事業とは問題解決であり、社会へのメッセージだ。

 

事業の条件
一、それは社会の課題を解決するものでなければならない
一、それは過去を見るものではなく、未来の姿でなければならない
一、それは時代の精神に裏付けられた創意工夫の凝縮でなければならない
一、それは人々を騙すことなく導くメッセージでなければならない
一、それはScalableでSustainableな自立した仕組みを有たなければならない