「自省録」批判:理性・文明・自己啓発の非力さについて
「自省録」が示す理性の痛み
ストア派の哲学者が、理性によって自らを導き、人生の苦境や世間の浅薄に感情を揺さぶられることなく、魂を解放しようとしていた基本姿勢に、学生時代の僕は感銘を受けた。
同時に社会に出て仕事を通じて様々な人と出会うにつれ、高潔さを保つためであれば、自ら命を絶つこともいとわないストア派の教義は、我が命を人質にしてまで理性に執着しようとする、極めて感情的な思想だとも感じた。
仏教的な価値観に根差すならば、人生の無力に直面して、命を捨てると自らの天命に脅しをかけねばならない状況は、高潔さでも倫理的主導権でも何でもない。ただただ非力であり、悲痛である。
思春期には、伝説的な哲人皇帝の勇ましい鍛錬の記録に思えたマルクス・アウレリウスの「自省録」も、よくよく人生の軌跡をたどれば、5人の子に先立たれ、長年の遠征に疲弊した哀れな老人の痛ましい抵抗にも見えてくる。
「木に実る葉 風はその幾つかを地面へと落とす子供とはそういうものだ」という(確か)イーリアスの有名な引用は全くと言っていいほど力ない。
この悲痛な叫びに、彼があれほどに繰り返した指導理性の力は全く及ばない。
忘れようともがく姿が、理性や高潔以上に、彼の痛みを伝えてくる。
まして、指導者としてのマルクス・アウレリウスの歴史的評価は、ローマ五賢帝の最後の皇帝、すなわち権限移譲に失敗し、暗黒時代の端緒を開いたという惨憺たるものだった。
指導理性は、果たして彼を幸せにしただろうか?ローマを導いたであろうか?という問いに、僕は口を詰まらせる。
彼は自らの魂を自らによってのみ救済しようとした。
理性に頼るというのは、主体的な倫理観を持つと同時に、自己の認識の限界に依存することでもある。
マルクス・アウレリウスの「自省」的性格そのものが、他者とのかかわりを意識的・無意識的に排除していたであろうことは容易に想像がつく。
他者との隔絶を、悲劇と描くか、孤高の生涯ととらえるか、はたまた茶番と切り捨てるか。
「こころ」が描く文明のあいまいさ
ギリシャの哲人皇帝が愛用した理性の延長上にある概念に、文明がある。
夏目漱石の「こころ」に登場する「先生」を、主人公の「私」は「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来ない人」と評している。
親族に裏切られた経験を持ちながら、自らも親友を裏切るという仏教的カルマを描きながらも、「先生」は自らの罪を自ら裁き、誰も知らぬところで制裁を加える。
「先生」の自らの罪に対する姿勢を、理知的であると賞賛すべきか、自らの殻に閉じこもったエゴイズムと蔑むべきかは議論の余地があるだろう。
同時に、「こころ」には「先生」個人の良心と理性、贖罪を超えたより包括的な概念が表現されている。
文明開化の時代に生きる「私」と「先生」の姿は、ストア派の「理性は自分の内に宿るもの」という規範の属人性を超えて、社会そのものがプロモートする文明性・合理性・先進性といった概念の存在を暗示する。
「先生」と「私」の対話には、西洋的教育を受けた自負がにじみながらも、個人主義に対するぎこちない感覚があらわれている。それでいて、二人とも自らの出身地である「田舎」とは距離を置いている。
マルクス・アウレリウスが絶えず自問した指導理性というプライベートな倫理規範は存在せず、むしろ西欧文明を中心とする新しいルールに適応しようとする、時代の流れのようなものとの交流が度々登場する(細かく言うと、伝統的な日本的価値観を遺していた明治の精神性から、西欧文明を疑わない楽天的な大正という新風が対比されている)。
「こころ」が時代を超えて読まれる背景には、理性と感情という普遍的な矛盾に加えて、西欧的文明観に取り込まれる違和感と安心感、という現代にも通じるテーマが巧みに組み込まれているからではないだろうか。
最終的には、社会が押し付ける文明も個人が持ちうる理性も、新たな苦悩のタネでしかない。
非合理的で前時代的な、感情的な世界を排除した結果として生まれる強い感情に「先生」は苦しめられ、最後には死を選択する。
明治帝の崩御に合わせた殉死というテーマは、「先生」が屈したものが自らの過ちへの理知的な罪悪感だったのか、時代という大きなうねりへの感情的な衝動だったのか、ふたつの可能性を同時に残すものだ。
「先生」の自死には、指導理性に従った高潔な覚悟はみられず、新しい時代に抗議する積極的なメッセージも含まれていない。
Nil Admirariの境地にあって、人生を達観し、同時に諦観している。
はたから見れば、高等教育を受けたエリートの内面にある、理性と感情、東洋と西洋の葛藤を、無力ないしは無関心として「こころ」は提示する。
自己啓発の外部標準化
21世紀になって、「人間的であること」が注目を浴びている。
理性と文明が行きつく先が、「豊かさ」というベールをまとった資本主義的合理性の追求であったという認識は、今となっては一般化しつつある。
そこで登場したのは、自己啓発という、不平等な社会における処世術であり、幸福のコモディティ化である。
「意識の高い」ビジネス書で語られる、二番煎じの幸福論や自分語りの一般化、ポジショントークの類にはとりとめてユニークな価値はない。
ビジネス書や自己啓発セミナーで課金の対象となる「自分と向き合う」行為そのものが、「コモディティ社会に生きながら、コモディティではない自分に」あこがれる極めて平凡な欲求を満たす消費活動に転換されている点は、見落とされがちである。
「そんなあなたに!」というよく聞くフレーズそのものが、「あなた」というオリジナルな個人をセグメント・抽象化する標語になっていることに人々は恐ろしく鈍感だ。
むしろ、「何で私の苦悩を理解してくれたのか!?」と飛びつく人々の非力さは痛ましい。
自己啓発という名のもとに、人々の苦悩が抽象化・標準化されていく過程で、経済的にコモディティであった人々は、精神的にもコモディティになっていく。
一般大衆が持ちやすい不満や悩みを一般化してまとめたブログや書籍、講演が、「あなたのために」提供され、「自分と向き合う大切さ」に目覚めた消費者は、入門レベルの学術書には目もくれない。
自己啓発へのアクセスは、誰にでも手に入るように提供される一方で、自ら啓発の意義を問う精神の自由や自由をもたらすリテラシーは、手の届かない専門書の砦の中に隔離されている。
極めて合理的に、人間の感情が経済的搾取の対象とされている。
今日喧伝される「人間的であること」や「質の高い生活」や「自由な生き方」は自然なようで、内的感情の外部標準化というパラドキシカルな側面を持つ。
戸惑いと模索
人は、自分の存在の不安定さや社会との距離感に戸惑う。
理性という殻に閉じこもることも、社会の波の中で戸惑いながら生きることも、自分探しの旅にお金を使うこともできる。
理性も感情も、はたまたそれ以外の「何か」も、道具に依存して解決しようとする姿勢には限界があり、結局は非力を痛感することになる。
救いようがない、と絶望する必要はないのだろうが、模索を続ける以外にしようがない。
読書に際限がないように、模索には終わりもなければ答えもない。
あるとすれば、一時的な腹落ち感のようなもので、それさえも新しい本に出会い、新しい見方に触れるたび、更新されチャレンジされていく。
まるでサーフィンでもするように、寄せる波もかえす波も、半ば受け入れつつ、半ば自らの力でコントロールしなければならない。まさに”Enjoy the ride”の精神。
学生時代に愛読した本を読み返しながらふとそんなことを思ったので、備忘のために書き留めておく。