気候変動スタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀をしていましたが、気候変動スタートアップを創業するためスタンフォードにいます。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

228週目:パロアルト出張②

今週はいくつか重要な仕事をしていた。

コロナですっかりオンラインベースの仕事に慣れてしまっていたが、改めて対面でのコミュニケーションの重要性を認識する。

アジェンダを組み、論考を加え、情報共有・オープンな議論・意思決定の区別をつけて、オンラインベースでメリハリの利いた議論をすることは技術的に難しいことではない。

むしろ、何となく会議にやってきて雑談しながらだらだら続けるミーティングが無くなる分、効率的な面もある。

会議の主催者の実力も、発表者の手腕も、事前準備の様子と当日のアジェンダをみれば、大体想像がつく。

 

ただ、深いところにある本質的な議論は別だ。

会議室にある空気や感情の流れも追いながら、お互いにひき出し合うようなミーティングをするのは、やはり対面がまだまだ一番のように感じる。

頭でする議論は大切だが、最終的な意思決定の段階において、情緒の存在を排除することはできない。

出揃った選択肢の中から、何を選ぶのか。どんな方向性や意味を持たせるのか。

こうした議論は、身体性を伴っている。

理性の世界と感性の世界を行き来しながら、互いの美意識をひき出し合い、照らし合い、批判し合うなかでしか生まれない新しい発想がある。

 

今回の出張前に、時間をかけて色々用意していた資料や議題を、面談の前日になって全て捨てた。

合理的に考察し、評価し、判断できるアジェンダというのは、8割がた既に答えの出た問いである。

一方、自分ができることは、規定のアジェンダを熟考した先にある、より抽象度の高い議論を導くことであろう。

平日とも週末ともつかない感じだが、頭を使っている。

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(つかの間の気分転換に、日の出直後にパロアルトの山側を走ってみた。シリコンバレーが一望出来て、なかなか気持ちいい)

227週目:パロアルト出張

2年ぶりの海外出張にやってきている。

サンフランシスコ空港はガラガラだし、数年前まではいつも満室だったホテルもディスカウント料金で泊まれている。

ホテルの一室で黙々とアジェンダのWordとPPTを書いている。日本を離れると、気持ちのスイッチも自然と切り替わる。

Work from Homeが一般的になったとはいえ、Work from 実家にはやはり無理があるかもしれない。

 

知り合いが沢山いるので、色々な人に会いたいところなのだけれど、ピークアウト直後とはいえ町中で感染が広がっている状況で、自分も感染してしまうとケニアに戻れなくなってしまう。

なので、今回は目的の面談のみに予定を絞って、それ以外のほとんどの時間をホテルにこもって仕事をしている。

はやくケニアに戻ってチームと再会したい。

225-226週目:戦線復帰

一足遅れの休暇を切り上げて、仕事に戻ってきた。

一年前は、必死になってチームの構想をまとめたり、プロジェクトの原本となるドキュメントを書いて、メンバーをオンボードしていた。

今年は打って変わって、メンバー各人がそれぞれ考えてきた計画をピッチする。

僕がオンボードされる立場になりつつ、各マネージャーの計画をチームとして整合の取れる形に統合したり、優先順位を絞ったりする。

事業開発からポートフォリオマネジメントへと仕事の内容が変わったのを実感した。

 

自分の理想とするチームは何か、と考えた時に、まず浮かぶのは新卒で所属した三菱商事のアセットマネジメント事業開発部だ。

「本邦機関投資家に世界最先端のオルタナティブ投資機会を提供し、ひいては日本の金融市場の発展に寄与する」という使命のもと、アセットや地域に関わらず、新しいプロジェクトの議論が自由闊達にされていた。

「わが社」ではなく「日本」や「産業」を主語に考える習慣、新しい情報を自分の足とネットワークでつかむ貪欲さ、テクニカルな知識を吸収し続ける好奇心、色々な意味でとびぬけたチームだったと思う。

トップスクール出身の優秀なメンバーが日の丸を背負って本気でやるからできる仕事があり、チームを取り巻く社内外のコミュニティに新しい発想をぶつける過程で、今の仕事のベースとなる力を育ててもらった。

全社戦略の転換で30年近く続いた金融事業からの撤退が決まると、メンバーのほとんどは転職してしまったが、転職したメンバーはそれぞれの持ち場であっという間に頭角を現し、自分なりのテーマでキャリアを築いている。

ベンチャー、バイアウト、REIT、インフラ、FoF、ヘッジファンドなど各分野にまたがり「金融企画」を専門としたチームメンバーであり、単なる栄達では満足せず、オリジナルな仕事を求める文化があるように感じる。

ミッションを持った組織が強い、というのはよく言われるが、ミッションを持ったチームに所属したことのあるミッションのある個人も同じかそれ以上に強い。

組織も個人も、どちらも終わりあるMortalな存在だが、ミッションは違う。

そういうチームが作れるか、これを今年の挑戦としたい。

 

余談:

今回の休みは、変わった時間の使い方をした。

仕事やその延長上にあることだけに精力を傾けてきた自分にとって、家族や私生活に意識を向ける機会は貴重だった。

Acumen Fellowのセッションで、ありていにいえば「人生の破綻」を他のフェローから指摘されて以来、考えてきたテーマだ。

キャリアに集中するために意識から切り捨ててきた部分を、”逃げている”と指摘されたのはきつかった。

これまで自分は一時帰国を、ホームに戻るというよりも一種の出張として捉えてきていたように思う。やるべきことをリストアップし、効率的かつ的確に実行する。

休みも家族との時間も計画して、日常的な時間を非日常的にブロックして守ってきた。

ただ、時間はブロックできてもマインドシェアはブロックできない。

資金調達や企画のような仕事は、「できるかも?」という可能性を最大化すべく、自分の手と足で常に未来に向けた仕込みを続ける必要がある。

常に「明日のため」に仕事をすることは、長期的に成果を上げ続けるために基本となるマインドセットなのは間違いない。

ただ、職業人として明日のための準備をしつつも、一人の人間として今を生きるためにはどうしたらよいのか、というのを改めて考えている。

名乗りを上げるフェーズからサステナブルに長期間大規模に戦い続けるフェーズに移行するタイミングで、引き続き向き合ってみたいテーマである。

2021年「飛躍と準備の年」から2022年「而立の年」へ

2021年「飛躍と準備の年」の振り返り

2021年は、人生で一番と言っていいくらい忙しい1年になりました。

仕事の幅と自由度が増え、チームが大きくなり、課題は複雑になり、という状況で、チームメンバーの猛烈な成長に負けないように自分をストレッチした一年でした。

スキル面でのギャップがほぼなくなり、同時に人としての雅量、リーダーシップそのものが問われ、頭を使うとか勉強するとかではないソフトな次元で変わろうと必死になった一年でした。

急激に複雑になる案件をカバーしながら、急成長するメンバーを支え切るだけの「何か」を求めてもがくことになりました。

解決できた課題よりも、新しく見えてきた欠点の方が多く、冬休みもそのまだ見えぬ穴を埋めるべく、格闘しています。

 

Komazaでのチーム組成

Komazaでの仕事は、カーボンクレジットプログラムの創設、世界初の小規模農家による林業の証券化、戦略パートナーシップや資金調達、海外展開のためのM&A検討など、多様なプロジェクトに優秀なマネージャー陣をチームアップして取り組みました。

年単位のプロジェクトも少なくない中、僕自身がプレーヤーとしての活動をやめ、マネージャーが企画から実行、現場での課題解決に至るほぼすべての過程を担っています。

Corporate Finance & Strategyチームでは、マネージャーには、ジュニアメンバーをつけるのではなく、業界でベストと思われる外部コンサルタント・専門家を起用し、業界経験を内在化させつつ事業にフィットしたプロジェクト開発ができるように"A Team of Teams"の形をとり、20-40名近い陣容になりました。

AppleとConservation Internationalとのパートナーシップなどリリースも出始めていますが、仕込み中の仕事はもっとたくさんあります。

自分の役割は、俯瞰的・経営的な目線でプロジェクトポートフォリオを組み優先順位を示すこと、必要なリソースを予測し持ってくること、論点の整理を手伝い必要に応じてOut of the Boxに考えること、めんどくさい交渉やセンシティブな会話をリードすること、といった感じです。

何でもかんでも自分でやりたくなっていた自分も、コーチングやチームとの1on1を通して、境界線が引けるようになりつつあります。

見えていない不安は、最後はチーム全員でがんばればなんとかなるという信頼感と自信が醸成される中で、消えていきました。

業界標準の半分から3分の2程度の厳しいタイムラインで、かつKomazaのユニークで複雑な事業モデルの隅々に注意を払う必要があり、何度か死にかけましたが、その度に自分のプロジェクトで大忙しのメンバーたちがお互いに助け合って乗り切ってきました。

考えていることが時代の先端であったとしても、ふたを開けてみればベンチャーでしかなく、少人数が必死に知恵を絞り手を動かしていくしか、生き延びる道はありません。

本当に良いチームができたと思います。

 

Thought Leadership

コロナ禍で移動が制限されたこともあり、オンラインが中心となりました。カーボンクレジットの高騰など、気候変動への関心が高まったこともあり、これまで以上にイノベーション投資の重要性を実感しています。

国連FAOGlobal Landscape Forum(GLF)International Union for Conservation of Nature (IUCN)といった、主要なプラットフォームで講演・パネルに参加しました。

Coalition for Private Investment in Conservation (CPIC)からは、Blueprintというシリーズで小規模農家に特化したファイナンス手法についてレポートを出しました。

また、日本では、東京工業大学の工学院が主催するExS Challengeの参加者向けにレクチャーをしました。

Komazaの活動を紹介しつつ、サステナブル林業やファイナンスについて新しい考え方を議論するという取り組みを4年くらい続けて、業界のなかでもポジションができてきた感覚があります。

考えること、発信すること、実行すること、すべてが揃って初めて社会が動くので、地道に続けていきます。

 

自分自身の変容と成長

実務的な難しさを仕事で感じることは、数年前と比べて格段に少なくなりました。

未知の領域であれば調べ方、専門家との議論の仕方、論点の切り方、既知の領域であれば細かな論点の把握と実行確度の向上策、といったようにやることが見えています。

一方で、チームによる成果のデリバリーや業界レベルでの新しいプラクティスの開発など、自分にとって「実務」と呼ばれるものが、次第にリーダーシップやイノベーションに近づいてきました。

「何をどうやるか」という企画者としての問いで言えば、「どうやるか」から「何をやるか」に明確で、大局的なビジョンが求められるようになってきました。

1年前の記事で、目の前の挑戦に没入しながら、いかに視野を広げていけるかが、パワフルな30代を築く基礎になると書いたように、コロナ禍で出張も旅行もできず、仕事のカウンターパートとも、リモートでのやりとりが大半の中、自分からコミュニティを広げていく手段としてフェローシップに参加しています。

 

気候変動分野ではボッシュ財団のGGFフェロー、社会起業・アフリカ分野ではAcumenフェローとして、活動しました。

具体的には、ボッシュ財団では気候変動の専門家としてチームを組み、世界の未来に対して気候変動と適応・緩和がどのように影響するかシナリオを作成しました。ベンチャーにいると、目の前の課題に追われがちですが、気候変動が21世紀の人類のテーマであることをはっきりと再認識する契機となりました。

Acumenフェローでは、リーダーとしての自分のあり方から一人の個人としての生き方まで、フェロー同士徹底的に議論しながら、向き合いました(振り返り)。人として、プロフェッショナルとして強くなりたいと武者修行してきた20代に見落としていた、自分や他者の「弱さ」とどう向き合うのか、という大事な問いをもらいました。ソーシャルセクターの起源は、富める者が貧しき者に施す慈善事業にあるといわれますが、キャリアとして誰もが社会を変える今日の社会起業の世界では、誰もが強さと弱さを持っています。

このあたりの経験は、渋澤健さんのPodCastにもなっているので、ご興味おありの方はぜひ聴いてみてください。

madewithjapan.net

 

2022年は「而立の年」

而立は、論語の「三十にして立つ」という言葉から、30歳を指す言葉で、そのままの意味といえばそのままです。

 

20歳の時に海外に出て、色々な挑戦をしてきました。

自分に何ができるのか、何をすべきなのか、という大きな問いに押しつぶされそうになりながら、社会起業やインパクト投資、Climate Financeという黎明期の業界で、日々格闘する中で、ようやく自分の考え方や強さ・弱さが見えてきたフェーズです。

ケニアにきてから最初の数年間は、「~ができるようにならねば」というスキル面でのギャップや「自分に果たしてできるだろうか」という劣等感に悪戦苦闘していましたが、それもひと段落ついた実感があります。

いうまでもなく、今でも仕事は分からないことだらけで、日々自分の未熟を痛感せざるを得ない状況ですが、自分にとってはそうした「危機的状況」もはや日常であり、新しい知識を吸収し、課題を整理し、出来るかわからなくともアクションをとり続けるというサイクルが、はっきりと意識できるようになりました。

Underdogとして何もないところからレバレッジをつくり出したり、現場でディテールを熟知したメンバーをなにがしかの新しい切り口を提示したり、無理と思われる困難にストレッチしされて、現場で揉まれて掴んだ感覚は貴重です。

 

20代の目標として、人とは違った視点や解像度を持てるようになる、ということを意識してきました。

自分は凡人なので、自然とオリジナルな思考はできません。

したがって、「インプット→情報処理→アウトプット」の流れで言えば、人がいかない重要な領域で難しい仕事をすることで、インプットをユニークにする、あわよくばユニークな経験が副作用として、情報処理のプロセスそのものを変えていく、という戦略をとりました。

こうして生まれた自分なりの美意識のような物差しを、いよいよ仕事に活かせる段階にいるのだと認識しています。

 

ここにきて、新たに重要性を帯びてくるのが、ビジョンです。

Komazaでの仕事を通じて、人類の20世紀の課題である貧困、21世紀の課題である気候変動という2つの大テーマを追いかけてきました。

一方、自分がベンチャーの実務で得意としてきたのは複雑な局面をシンプルなシナリオに分解し、最も少ない手数で解決していく、といういわば戦場指揮官的な仕事で、局面そのものを規定する上位構造そのものにチャレンジすることはあまりありませんでした。

ファイナンスという職制そのものが、技術的な解決法である、という面もあります。

しかし、あらゆる社会課題は、課題を生み出すシステムそのものを変えないかぎり解消されません。

システムを構成するのは、政府や民間セクター、社会にとどまらず、戦場指揮官である自分も含まれます。

日々の課題解決をしているだけでは、どんなに頑張ったところで、あくまでシステムの一部でしかありません。

システムそのものに疑問と仮説をぶつけて、アプローチしない限り、大きな変化は期待できないのです。

 

システムにアプローチするというと、「視座を上げる」というイメージを持ってしまいがちですが、本当に大切なのは抽象的な視野を持ったうえで、自分なりにポジションを取り、行動を通じてシステムに働きかけることです。

そうして初めて、構造が生み出す問題ではなく、問題を生み出す構造そのものを変えることができる、ということをAcumen Fellowで改めて感じました。

Ashoka時代に「System ChangeなくしてSocial Entrepreneurshipなし」という議論を散々していたのに、気づけば日常のカオスに飲み込まれ、既存のシステムに取り込まれていたと猛省しています(システム思考大事!)。

システムに挑むということは、偶然ではなく必然であり、意思決定でもあります。

 

今年のテーマである「而立」という言葉で捉えるなら、これまで自分は現場の実務で優れた成果を上げることがひとり立ちの指標になると勘違いしていました。

目指すべきは、現場で成果を上げながらも、システムそのものに対して、意図を持って働きかけることができるリーダーシップであり、視野を広め、視座を高め、システムそのものにポジションをとらねば一人前とはいえません。

今年は、気候変動をテーマに、自分なりの視点と世界観、そしてあるべき姿のクリアな仮説を持ちたいと思います。

何のために働くのか

30代に突入して、周囲の友人たちが世に言うところの「落ち着き」を持ってきた。

寝食を忘れて馬車馬のように働くことが求められたフェーズが終わり、下積みを活かして慣れないながらもマネジメントとして責任を担うようになる。家族ができたり、趣味に向ける余裕が出てくる。

無限大に思えた人生の可能性が少しずつ輪郭を示すようになり、できること、できないことの境目を探りたくなっていく。

 

そんな人生の時期に大学・新卒時代と変わらず生活の大半を仕事や研究に費やしているので、友人からは「なんでそんなに頑張れるのか?」とよく尋ねられる。

いつも「まだまだやることがあるから」とか「早めに準備しておきたいから」とか「ほかにやることがないから」とかいってごまかしてきたが、真面目に答えようとすると案外難しい。

事業へのこだわりや自己変容へのコミット、人と社会への関心、そして仕事へのアプローチは、自分にとってはごく自然なことで、人から指摘されて初めてその特異さを認識するようになった。ようやくこの5年くらいのことだろうか。

 

ソーシャルインパクトに興味がある人はたくさんいても、フルタイムでやる人は少ない。

情熱や好奇心には、ぶつける対象以上に、熱量を保ち続けるための器(Vehicle)が必要である。

大きなエネルギーを持っていても、最終的に行動や仕事に転換する仕組みや継続して取り組む方法がなければ、数年で「若き日のいい思い出」になってしまう。

大学を卒業した時の自分にも、自分もそうなるのではないか、という不安があった。

仕事で自分を追い込みながら、インパクト投資家や社会起業家にラブレターを書き、面談を申し込み、カンファレンスで真っ先に質問して名前を覚えてもらった。

遊ばず節約して資金をため、1年は現場でタダ働き仕事できる貯金を作った。

最後は気持ちだと、後ろ髪を引かれるようなことがないよう、あらゆる心の重石を切り捨てた。

今となっては極端なやり方に思えても、当時の自分は、行き場のないエネルギーを乗せる器(Vehicle)を何とか作ろうとしていた気がする。

 

行ったことのない国に移住して、アフリカの片隅のアーリーステージベンチャーに手弁当で突撃する、不可能といわれた資金調達でコロナ禍を乗り切りケニアのベンチャー投資総額の10%を調達する、業界でまだ試されたことのない企画を立て新しいプロジェクトを複数同時に並走させる、振り返れば「あるべくして起きた」イベントも、当時は必死になって考えて、行動して、挑戦していた結果が積み重なったものだ。

自分がもっともストレッチされ、追い詰められ、結果的に最も研ぎ澄まされた、創造的な仕事ができるようになる環境をセットアップする。

ひとつの目標が達成されると同時に次の目標に野心を燃やす。次の目標への解像度を上げるプロセスとして、目の前の課題に取り組む。

毎年一度は、自分のいるフェーズや人生のテーマについて、メンターや友人からもアドバイスをもらいながら、仕事と同じように丁寧に構造化し、考え、仮説を修正する。

国際機関やファンドではなく、ケニアのベンチャーに飛び込むと決めた時、「神経質でありながら、起業家的な面もある自分が、全く想像できない場所でゼロから世界のだれもやったこのない仕事にぶつかったとき、何を感じ、生き延びるためにどんな能力を身に着けるだろう?」という問いを立てた。

半ば本能的に確立したプロセスを、僕はこれからも回し続けていくことになるのだろう。

 

自分の限界を認識し、超えていく過程において、全力投球以外の努力は無意味になってしまう。

限界を知れば、あきらめるのではなく、自分の得手を伸ばし、苦手を補うことができる。

さらには、自分の可能性を最大化できるように、チームをつくれるようになってくる。

不思議なことに、自分の限界を超える仕事には、自分を超える才能が続々と集まってきた。

ハードワークな20代がマネジメント昇格後に陥りがちな、スーパープレーヤー症候群も自然に克服される。自分の限界と近いところで仕事をする中で、自然と人と働く意味を考えるようになり、チームへの感謝が生まれるからだ。

様々な危機を乗り越える中で、最後は自分しか信じられないと疑心暗鬼になっていた自分に、”I got your back"といって支えてくれるチームができたとき、人生観そのものが揺らぐ。

最高のチームを作る第一歩は身の丈に合わない挑戦をすることだと学んだ。

旗を立てて声を上げれば、時間はかかっても世界がそれに応えてくれる、という確信が今の自分にはある。

 

全身全霊を傾けるから、想像を超えた仕事ができる、というのが僕の20代の信条だった。

情熱と好奇心の赴くままに、生活のほぼ全てを仕事と研究につぎ込めたのは、やればやるほど自分と他者、そして社会について理解が深まっていったからだと思う。

辛いことがあっても、そうした経験を通じて人と社会の新しい側面を学んだし、よく考えたうえでの地道な努力は想像をはるかに超える成果を生み出して、時折くじけそうな自分を励ましてくれた。

社会と自分の境界線がはっきりして、自分がどうすれば個人としての充足と社会への価値を、バランスよく生み出せるかが見えてきた。

その意味で、自分にとっての仕事は、世界との対話のようなものであり、同時に自分との対話でもある。だから、まだまだ続けていける。

 

今だから言えるけれど、2-3年前までは、メインストリームの金融よりも給料も安く、私生活が破綻しがちでリスクばかり高いソーシャルセクターという業界にいる自分を疑問に思うこともあった。

周りの友人たちが、同じように努力して、昇進や高給やステータスというわかりやすい成果を上げたり、早くからパートナーと立派に家庭を築いているのを見て、自分で自分の価値を証明しなければいけない黎明期の業界で、明日をも知れず日々汲々としている自分は「なんなのだろうか」と途方に暮れることもあった。

取り返しのつかない、キャリアの判断をしているのではないかと、ケニアのド田舎で頭を抱えたり、身の丈に合わない挑戦を後悔したことも何度もある。

 

けれど、そうした時ほど、なぜか昔の自分の仕事に励まされることが多い。

大学時代に取り組んだ学部留学支援で関わった人たちとつながることも増えてきた。

自分が企画した説明会で留学を決意した人が、海外大に進学して三菱商事に就職してエレベーターで声をかけてくれたり、温かいメッセージをTwitterでくれたり、仕事相手がかつてのイベント参加者やブログの愛読者であったり。ちょっとした奇跡に勇気をもらっている気がする。

自分の中で明確なプロジェクトへの情熱が湧き上がってきたのが、10年あまり前なので、ようやく色々な縁が一巡してきたのかもしれない。

自分が「世界との対話」だと思って黙々と投げかけてきたプロジェクトに、小さくとも反響があったのだと知るたび、広い意味での「仕事」がいかに自分の人生を豊かにし、導いてくれるものかを思い出す。

新しい企画を考えやるべきか悶々とする孤独な時間も、「本当にできるだろうか?」と半ば自問しながら強気でアドバイスを求めに行くときも、「始めたからにはやるしかない」と突っ込んでいくときも、信じるプロジェクトのために働いたからこそ得られた経験が原動力になる。

 

大学時代のメモに、次のようなことが書いてあった。

「何のために働くのか?」という問いに対する答えは、ここにある気がする。

事業という言葉をプロジェクト、あるいはプロジェクトが積み重なった総体と置き換えたほうが良いかもしれない。

 

人生の目的
人生とは、事業の積み重ねである。
僕にとって、事業とは問題解決であり、社会へのメッセージだ。

 

事業の条件
一、それは社会の課題を解決するものでなければならない
一、それは過去を見るものではなく、未来の姿でなければならない
一、それは時代の精神に裏付けられた創意工夫の凝縮でなければならない
一、それは人々を騙すことなく導くメッセージでなければならない
一、それはScalableでSustainableな自立した仕組みを有たなければならない