大馬鹿になれるか、という問い
僕がここにいるのは、新しいことをしたいと思ったからだ。
全力で走り抜けた20代で集めてきた経験や理解、感情を、一度バラバラにして、ゼロから組みなおしていくために、あえて今の環境に身を置いている。
バラバラにするとき、自分が当たり前にしてきたことができなくなる。
バラバラにされるのは、自分の不安でもあり、自分の自信でもある。
仕事の波に乗って順調にキャリアを進める友人たちを尻目に見て、自分はなんとバカな遠回りをしているんだろう、と半ばあきれたりもする。
バラバラになった自分に、以前のような安定感はない。
やり慣れた方法をすべて放棄して、ゼロから馬鹿みたいに足掻いている。
もしかしたら、自分は何にもならないかもしれない、という漠然とした不安が、暗澹たる雲のように頭の上を覆うとき、叫び返す言葉を持たない。
まして、周囲から、素晴らしい環境で、前途浩々だ、などといわれても、同じ世界のものだとは思えない。
一度大馬鹿になってたくさんの失敗をしながら、自分なりに考えを持とうとしてスタンフォードに来たわけで、エリート然としてかっこつけたところで、何にもならない。
この不安は正しい不安だ、そう言い聞かせる。
ただ、愚鈍の極みと知りながら、一つ一つ経験をバラバラにする。
新しい出会いがあり、世界観に触れたり、経験をする。
今すぐに答えを出したい焦りをなだめながら、自分なりにはまりのよい組み上げ方を考える。
ひらめきを渇望する気持ちに対して、どっしり構えることができているか?
今までの自分を忘れて、新しく世界を捉えなおそうとできているか?
発想を練り上げるときのカギとなりうる小断片を、積み上げているか?
時間のかかる考え事に、気持ちを向けられているか?
膨大なインプットを自分の中で整理できているか?
思考と情報を単に統合するだけではなく、自分なりの断面から世界を捉えることができているか?
内向的なプロセスを、ペースを守って進めていく。歩みは遅くとも、確実ではないかと、どこか確信めいた感触がある。
この前まで自分が生きがいにしていたスタートアップの世界は、毎日が戦場だった。
難問や難局が毎日のようにやってきて、退屈することがない。
そして、本当に自分の実力がどれほどのものか、覚悟の深さはいかほどか、成功への執念はあるかが、問われていく厳しい世界だ。
だからこそ、生き抜く中で感じたこと、得るものは、絶対的な確信につながる。
「よいことをしたい」という気持ちではなく、「何が善なのか」という明確な価値基準が、強制的に生まれる。
その基準、世界を測り、人を見つめる尺度をもってして、自由な発想をぶつけた時に、何が生まれるのか、ということに僕は興味を持っている。
その実験がしたくて、わざわざ今の環境までやってきたのだ。
だから、僕が大馬鹿になって、ゼロから考え事をして、みっともない失敗をしているのは、普通の挑戦とは重さが違うはずだ。
昔の仲間たちをあっと驚かせるアイデアは何か、自分にしかできない意味のある仕事は何か、自分は何のために生きるのか、極限まで突き詰めるための出発点に立っているのだと思う。
だからこそ、勇気をもって振り抜きたい。