252-253週目:思えば遠くに来たものだ
思えば遠くに来たものだ。
留学したときも、日本に帰国して就職したときも、ケニアで仕事をしているときも、出張で飛び回っているときも、ふとした瞬間に自分が今どこで何をしているのかわからなくなる。
直感的に行動してきただけなのに、目指したわけでもなく無国籍的、無所属的な存在になってしまったのではないかと不安になる。
気候変動やインパクト投資という抽象的な未来像を追い求めると、意味を持つのは実績と実力だけで、帰属意識はかすんでいく。
グローバルといえば聞こえが良く、根無し草といえばものかなしい。
世界という大きすぎる主語との一体感は、さほど安心感をもたらしてはくれない。
今日で31歳になったのだけれど、特段の感慨とか意気込みは感じない。
これまでは、毎年目標を立てて頑張ってきた。アグレッシブに差分を設定して、埋めるために限界に挑んできた。
今年はそうではない。
なんというか、今までの経験全てがめぐりめぐって力が抜けている。
20代で、人とは違う経験をして、人一倍変化しようとしてきたからこその実感なのかもしれないが、この1年は力を抜いてありのままを見つめる時間になる気がする。
社会課題という大上段の主語で、アフリカという新興市場に飛び込んでいって、国境関係なく仕事をしてきた。
不可能と言われれば、何とかやってみようとしてきた。
ときには堅い壁に頭を打ち付け続けるような無力感と痛みにさいなまれることもあった。
仲間の存在がきれいごとではなく生命線となり、自分のひとりの力で社会を変えられるという幻想が叩き壊された。
誰も解決したことのない課題は、やはり難しくはあったが、冒険的なスリルがあって楽しかった。
大変な経験はあっても、悲壮感はなかったように思える。
身の丈に合わない問題を解決しようとし続けた10年で、もっとも変化が大きかったのは、課題解決の能力そのものよりも、解決できない課題と向き合い続ける忍耐力だったり、解決できない辛さに対処する心の持ち方だったりする。
理不尽には今も憤るし、不可能には挑んでみたくなる。持て余している感覚や社会へのDefiantな姿勢はこの先も変わらないだろう。
ただ、取り組むことそのものの意義が、何をやってもトライアルとして価値があった20代からは変わってきている気がする。
今一度、冷静な目で世界を眺め、自らを省みて、何を人生でなすべきなのかを考えるのがこの一年になるのだろう。