251週目:社会への参画について
安倍元首相の暗殺という衝撃的な事件があって、心の中にぽっかりと穴があいたような、形容しがたい違和感と無意識に戦っている。疲れた。
政治的信条に基づくテロルではないとしても、こうした事件は時代の空気の象徴となって、うねりを作っていってしまう。
意図的であるかによらず、いくつかのランダムな出来事が重なり合って、時代の歯車が大きく食い違うなんてことは、歴史を振り返れば何度も起きている。
社会が過渡期にあるなかで、コロナや不況といった追加的な負荷が加わった時に、自分のことだけではなく、(とりわけ声なき)他者に想像力を働かせられるかが問われるのだろう。
選挙で投票することも、自分自身の日々の仕事も、「社会への参画」という点では、遥かに遠い道のりに思えてしまう。
けれど、小さな一票、小さな一歩を人々が積み重ねた先に、市民社会の未来は形作られるのだから、遥かに見える道こそ、正しい参加の形なのだ。
暴力や汚職といった「変化へのショートカット」は、市民社会において最も遠ざけられるべき道のりだ。
もどかしさをぐっと飲み込んで、やるべきことをやっていくのが市民としての成熟であり、社会としての矜持ではないだろうか。