バトンを渡す
色々な人にバトンを渡されて、ここまでやってきた。
生まれながらに渡されたバトンもあれば、人生の道すがら渡されたバトンもある。
とても抱えきれない重さのバトンもあれば、持っているだけでどこへでも行ける気がするバトンもある。
さりげなく手渡されたバトンを抱えられるようになるために、何年もかかることだってあった。
バトンを受け取れることはPriviledgeであり、バトンを渡せることもまたPriviledgeだ。
いつしか僕は、バトンを受け取る側から、渡す側にもなるようになった。
ありがたさと、恐ろしさが同居する。
このバトンは、受け手を飛翔させうるだろうか、かえって重荷になってしまうのではなかろうか、そう自問しない日はない。
はたして、自分の手渡すバトンに価値はあるのだろうか、バトンの意味を分かってもらえるだろうか、そう疑わない夜はない。
長らく一方的な受け手であった自分が、渡し手の巧拙を知っていればなおさらである。僕は戦慄する。
それでなお、人は願いを託し、善意のかぎりを尽くしてバトンを渡す。
受け手がバトンを握ってくれるとは限らない。気づいてくれるとも限らない。それでも、人はバトンを渡し続ける。
その営みの高潔さと純粋さに、僕は何度勇気をもらっただろう。
そして、どれだけのバトンを、知らずに落としてきたのだろう。
15年前、ある本を贈られた。
高校生だった自分は、思春期らしい好奇心と反抗心の入り混じった気持ちでその長編を読んだ。
孫ほど年の離れたその人は、伝説とよばれた編集者で、中学生のころから何冊も本をくれては、僕に感想を求めた。
ただ、その本をくれた時だけは、ちょっと何かが違っていた。良い本だから、面白いから、ではなくて、「君の人生にとって大切な本になるから」という趣旨の、いつもと違うニュアンスがこもっていたのをおぼろげながら記憶している。
そんな出来事をふと思い出して、ケニアにその本を持って帰って読み直して、愕然とした。
当時彼が何を伝えたかったのか、議論したかったのかわかる気がする。否、今でこそ彼に尋ねたいことが山ほどある。彼は僕のなかに何を見出したのだろうか、そして、何を伝えたかったのだろうか。
彼はとっくに鬼籍に入ってしまっているから、もう何も聞くことはできない。
落としてしまったバトンに、ずっと後になって気付いた自分の鈍感が呪わしい。
それでいて、彼は当時の僕が理解することを期待していなかった気もする。
それくらい、深く遠く、暖かなまなざしを向けられていたことを、本を読みながら感じる。
その長編は、僕に生半可な答えを許してはくれない。人生を以て答えろと言わんばかりに、無数の難問を突き付ける。
道のりは遼遠だ。