216週目:「幸せか?」という問いについて
週末体調を崩していたので、今週は印象に残ったことだけ手短に。
余裕ぶって見えるらしいが、無理を重ねて心身共にギリギリなので、残りの1か月は気を付けて回したい。
一年余り続けてきたプロジェクトの発表があった。プロジェクトをリードする担当マネージャーが、修羅場をかいくぐった人の発する覇気というか自信に満ち溢れていてとても良かった。
僕はセットアップのお手伝いと途中で必要なときだけ応援していた本案件、チームのリーダーシップでアフリカ初・世界初の仕事ができていて、すばらしい。
最近頓に感じるのは、チームにぶつけたエネルギーは100倍くらいになって返ってくるということ。
最初はぶつかりもしたし、理解もしてもらえなかった(おそらく僕も理解できていなかった)けれど、コミュニケーションから逃げずにゴリゴリ容赦なく仕事をしてきたから、出来たのだと感じる。
その昔、チームは「お友達」ではないと言われたことがある。信頼感と緊張感の良いバランスを生むのは、ぶつかるのを恐れない気持ちなのではないか。
バランスそのものを目指すと、人は委縮してしまう。
Acumenの時にも聞かれたのだが、”Are you happy?"という質問が僕は苦手だ。
そもそも幸福というのは、自分にとっては刹那的な感情で、安定的なものではない。
親しい友人と談笑している間にも、メール一本で谷底に落とされることもあるし、頭のどこかは仕事の厄介事に無意識に割かれている。
ただ、現状に対する納得感ならある。自分が歩んできた道のりを、成功も失敗もひっくるめて、すべて自分の責任として(応援してくれた人や幸運には感謝しつつ)説明することができる。
おそらく、一般に言われる、幸せかどうか?という問いは、僕にとって「”Accountable”か?納得いっているか?」という言葉に置き換えられよう。
最近知人に指摘されるまで変わっていると意識していなかったのだが、自分は人生の意思決定については企画書を書いてその是非を定期的に問う。
だから、迷って苦しむけれど、立ち返ることがある。仮説があり、検証するための行動がある。だから、つらいけれど、自分自身の人生に対してAccountableであり続けられる。
それを失ってしまうと、糸の切れた凧のようになってしまわないか、と心配になる。
想定外のことは、語弊を恐れなければある程度想定されている。
本当に奇想天外なことも稀に起きるが、その場合も企画書には必ずヒントがある。
だから、自分は書き続けるし、書いたままに行動し続けるし、そこから自分を変化させ続けていく。
そこには、完成もなく、成功もなく、おそらく幸福も存在しない。