ケニアスタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

事業における身体性

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卓越した投資家・経営者と優れた投資家・経営者の違いは何か、という問いをこの15年くらい考えている。

事業を理解して、適切な判断を下していくためには、日常生活においいても常に事業とつなげて考える必要がある。

経営者や投資家の自伝などで、ふとしたきっかけで大きな意思決定をしたりするのは、ふとした瞬間を含む長い時間を意識のどこかで仕事に向けているからに違いない。

経験豊かだったり、知能が高いだったりする以上の「何か」として、「事業の身体化」という要素があるのではないか。

今回のブログでは、事業の身体化あるいは身体性について書いてみたい。

 

身体性を持つとはどういうことか

事業への身体性を持つとは、会社の経営に関するあらゆることに関心を持ち、神経をとがらせている状態のこと。同時に、自分の体を動かすように、会社の状況を把握して自在に変化を起こすこと。言うは易く行うは難しで、何が起こっているのかを自分の物理的な視界や組織的な関係性を超えて知覚し、反応するというのは、難易度が極めて高い。野球選手がバットを身体の延長と呼んだり、自動車の運転になれると空間感覚が延長されるなどといったことよりもはるかに複雑だ。

 

事業に対する感覚が研ぎ澄まされるほど、事業を動かす自由度が上がるほど、判断のスピードは速く正確になる。理想的には、新しいアイデアを聞いたその場で起こりうる反応の連鎖を想像し、意思決定ができるようになる。こうした身体的・直感的なプロセスは、筋の良し悪しを見立てる能力でもある。経験と知識、意識的なトレーニングで身に着けられる後天的な能力で、業界歴の長いプロがパッと見て答えを出すのも、本人の専門性が単なる知識よりも深い身体的な理解を獲得している結果といえる。

 

不確定要素が多い状況下でBetterな意思決定を支える

身体性を持つテーマにおいては、短期間で精度の高い結論が出せ、かつ不確定性が高いスタートアップのような環境では、全体像や落としどころが見えない中でBetterな選択ができる。ポジションが上がり、ハンズオン出来る領域が減るにつれ、実際に手を動かしている人を信頼して仕事を任せる必要が増えてきて、CEOなどになってしまえば、実務はほぼ全役員に任せるのが基本になってしまう。現場への接点も、日々のコミュニケーションも、あらゆるインプットが減った中で、マネジメントの正確性を上げつつ、めんどくさいマイクロマネジャーにならないために、事業に対して身体的な感覚、筋の良し悪しを見極める直観力を維持・向上し続けなければならない。そのために、受け身ではない情報収集を社内外で行ってデータや経験値を高め、同時に意識的に事業の輪郭線を定義して、判断基準を作り上げる必要がある。また、身体感覚は想像力の一種であるから、自分のポジションに関わらずに延長することもできる。早いスピードで成長する人は、この辺の機微の勘が良く、自分の現状ポジションよりも高い視座の感覚を先回りして身に着けて、「こいつは分かっているな」といわれる。

 

身体性がドグマ化するとき

優れた経営者、投資家、専門家などはこの身体感覚が極めて鋭敏で、とりわけ、自分のコントロールの範囲内外の輪郭線への理解がはっきりしていることが多い。日々迫られて判断を下し、その首尾を観察しているから、のるかそるかのギリギリの線が分かっているし、時として言語化もされている。一方で、身体性を使った即断即決の意思決定は、思考のプロセスを省略しているので、自分の思い込みが介在する余地が大きく、自分で気を付けていないと思考のクセが組織に投影されて、ある種の脅迫観念になってしまったり、思考の短所が組織の短所になったりする。数年ならまだしも数十年単位で一つの会社を経営している名物社長がワンマンと呼ばれるのは、この省略が周囲に見えづらく、かつ成功体験を通して身体性が高まった結果、ある種のドグマ的になっているのかもしれない。ドグマは成功法則として機能している限りは強みになるが、ゲームのルールが変わったり、組織のフェーズが変わったタイミングで見直さなければ、逆回転を始める。

 

身体性の延長と過剰反応

判断の質への影響もさることながら、事業への身体性が高まりすぎると、今度は事業に対してぶつかってくる壁が、あたかも自分個人に向けられているように感じられる。経営者が孤独だと言ったり、退職する社員に裏切られたように感じるのは、事業が単なる仕事を超えた自分自身の身体の延長になっているからにほかならない。事業を身体化するということは、個人の生活を事業が侵食するということにもなりかねない。そこで、いわゆる鈍感力が求められ、意識的に身体性を遮断するスキルが求められるようになる。身体性があるが故の過剰反応は、周囲には奇異に映り、判断そのものも感情的になりがちで、こうなると論理的思考を省略して正解を導くために事業の身体化をしていたはずが、非論理的な感情論になってしまい本末転倒になる。

 

身体性を意識的にコントロールできるか

経営者がよく口にする孤独感または「すべては分かってもらえない」というコメントについて考える中で、このブログを書こうと思った。

立場が違うから視座が違うだけだと長年思っていたのだけれど、実は視座という質的なズレに限らず、コミットメントや熱量といった量的なズレがあるのではないか、と感じている。

仕事を身体の延長(または人生そのもの)としている経営者からすれば、仕事はこの上ない切迫感を持つ。一方で、一般の社員からすれば、5時の終鈴と同時に仕事は自分からは切り離される身体外の存在だ。

仕事・事業の身体性をコントロールしていかない限り、長期で挑戦を続けるのは難しくなる。また、一般社員と経営者の必然的な熱量差が、互いへの不信感を生んでしまっては事業成長も望めない。

経営者も延々に仕事だけを考えてしまっていると燃え尽きてしまうので、量をコントロールしつつ、質を担保できないか。

どうすれば身体の延長でありながら、精神の外部に事業を置けるのか、このあたりは面白いテーマになる。

何となく感覚的に認識している内容を言語化してみたが、もう少し深堀りできそう。