なりたい自分とどう向き合うか
チームと個人の関係について、久しぶりに考える機会があった。
僕は「強みは?」と聞かれたら、フットワークの軽さと信念の強さ、と答え、「弱みは?」と聞かれたら、Anxiety(落ち着きのなさ)とdevastation(ガツガツしすぎる感じ)と答えることにしている。
当たり前のことだけど、人には長短があり、しばしば短所は長所の裏返しだったりする。
例えば、僕にとっては、「もっとうまくできる」という不安が常にあって、それであっちこっちを走り回りながら最善の手を模索しているからフットワークは軽い。でも、かえって落ち着いてじっくり問いと向き合いながら考えるような作業は、途中で堪えられなくなってしまうこともある。
不安のコントロールができていないからだ。この弱さは自分でも自覚していて、最近はそれを直すために毎朝出勤前に瞑想をするようにしている。
どこまで改善出来るかは別としても、個人のレベルでは、弱点は克服されるべきだと思う。
では、チームではどうだろう?
いくら自分が頑張っていても、相手が必ずしもストイックに自分の短所を認識しているとは限らない。
むしろ、難があるといわれる人ほど、かえって意固地になってますます問題が大きくなってしまうことの方が多いのではないか。
そもそも、短所という概念自体が、自分の帰属する文化的なコンテクストに規定されることがほとんどで、うっかりすると独りよがりの他人批判になりかねない。
また「多様性」という言葉もあるように、例え一度気に障ることがあっても、その反対側にある長所に気付ければ、丸く収まることも少なくない。
アメリカに来てからは、様々な国の「常識」にしたがっている人とチームを組むことが増えて、そういう意味ではいい訓練になっている。
福澤諭吉が「人に交わるには信をもってすべし。己れ人を信じて、人もまた己れを信ず、人々相信じて、始めて自他の独立自尊を実にするを得べし」と言っているように、こうした多様な環境では相手の強みも弱みも受け入れて、その上でどう物事を動かせるかがリーダーシップの重要な要素になっている。
この人なら強みも弱みもわかってくれている、という信頼があれば、多少の論戦は避けられなくとも、最後の最後でチームとしてまとまりをもち、各自が最大限力を出し切れる。
その状態は、まさに独立自尊のプロフェッショナリズムをもったメンバー一人ひとりの能力が、チームという集団を通してひときわ輝く瞬間でもある。
仲間を信じる。そんな当たり前のことが、日本にいた頃の自分にはできなかった。
自分が一番上で、何でもできる立場なら、物事は簡単だ。「やれ」と明確な指示さえ出せば、部下が引き受ける。
中高の部活の様な世界。それはそれで秩序だし、別に結果が出ているのならいいと思う。
ただ、今自分の飛び込んでいる世界は、多様な才能やものの見方にあふれるチームを、ひとつのゴールに向けて動かすことで、1+1を100にも1000にも変えてしまう世界だ。
自分の自意識を離れることなくして、同じように自分の能力や経歴にプライドを持つメンバーを束ねることはできない。
ブラウンに入学して驚愕したのは、同級生たちの多様な才能だ。
音楽ができる、絵が描ける、スポーツができる、数学ができる、みんな世界ランキングで競い合う世界の仲間が同じクラスにいるプレッシャー。
後輩であっても、優秀な人はちょっと話をすればすぐにわかる。
隣の芝が青い、どころではなく、どの分野をとっても天才があふれる世界で、何もできない無力な自分が惨めに映った。
それぞれの分野で傑出した業績を残している人が既にいて、自分はどんなに頑張ってもその足下にも及ばない現実。
こここそが、勝負の始まりではないだろうか。
その惨めな自分を哀れむ自分を、放逐する。
万能にはなれない現実を直視し、受け入れることにする。
そして、その現実に足をしっかりと食い込ませて、何ができるかを考える。
もちろん、痛みはあっても、それ以外に選択肢がないことくらい、とっくに分かっている。
できることをする。それだけのことが、どれほど難しいのだろう。
「善をなすに、勇なれ」小泉信三
全てを包み込む確信こそが、世界を導けるはずだ。
だから僕は、世界中の優れた才能を包み込める人間になりたいと思う。