気候変動スタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀をしていましたが、気候変動スタートアップを創業するためスタンフォードにいます。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

映画「沈黙」とあいまい文化の恐ろしさ

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遠藤周作が1960年代に書き下ろした原作をマーティン・スコセッシ監督が手がけた映画「沈黙」を観てきたので感想を書き留めたい。

ネタバレもあるので、まだ見てない人はご注意ください。

 

徳川幕府がようやく安定期を迎える17世紀中盤の日本を舞台に、隠れキリシタンを迫害する長崎奉行井上筑後守と、日本で消息を絶ち棄教したとの噂が流れている宣教師フェレイラを探して日本に密入国した二人のイエズス会宣教師の衝突を描いたこの作品。

歴史ドキュメンタリー途中はかなり生々しい処刑や拷問のシーンもあり、3時間近い上映時間は終始重苦しかったが、それ以上に記憶に残っているのが、キリスト教を「真理」と信じて密入国後も布教を続け、自らも絶対の信仰を疑わない主人公と、「環境が違えば、根付く宗教も違う」として日本にとって危険なキリスト教を諦め、平安を取り戻せと説得する井上筑後守の論戦だった。

20世紀後半に「第三世界」の学者や思想家が主導した文化的帝国主義やエスノセントリズム批判の観点から見れば、自らの真理を異なる文化的風土に広めようとするイエズス会の宣教師こそが寛容さを欠いており、迫害の非人道性は許されないとしても、多様性としてのキリスト教を全否定することなく、日本という風土・秩序の尊重を求める幕府の姿勢こそが現代的といえるのかもしれない。

しかし、この物語はそうした「多様性を認め調和を愛する日本人」というありふれたテーマとは懸け離れた、残酷な日本像をえぐり出している。

 

宗教の前の人間性

宗教的な迫害に直面した時、人は魂と肉体の安全のどちらかを選択することになる。

自分の命と自分の信仰ならまだしも、自分の信仰と他者の命までもが天秤にかけられる踏み絵のシーンは何度もパターンを変えて繰り返され、罪を犯してしまう弱さと罪悪感を償おうとする心の揺れ動きが露わになる。

こうした極限の選択の中で、信仰心の弱さや強さだけでは計り知れない、人心の矛盾と相克をためらいなく描くあたりが、この映画の深さだと思った。

 

 

日本という沼とあいまいさに潜む罠

異端を巡る流血は、歴史上珍しいことではない。

中世の十字軍にしても、今日のジハードにしても宗教戦争の時代は長く続いているし、日本でも宗教による流血こそ稀かもしれない一方、ミクロな社会でも村八分やいじめといった、集団から特定の個人を引き離して差別する社会の傾向は一貫して存在している。

ただ、異端が差別される環境は世界共通だとしても、異端の「取り扱い」には文化性があるすることを暗示するシーンがある。

最後に主人公が長年の信念を曲げて、棄教を宣言するとき、主人公の変節にあの手この手を使ってきた筑後守は「私に負けたのではない。日本という沼に負けたのだ」と言い放つ。

(ちなみに、あとでWikipediaを見てみたら、どうやら「この国は(すべてのものを腐らせていく)沼だ」というフレーズは、原作出版時にも流行語になっていたらしい。)

 

主人公が直面した魔女狩りや異端審判のように、 「キリスト教は絶対であり、それ以外はゆるされない」とする白か黒かという極端な選択を迫るのではなく、「仏教などの日本の伝統に照らして、自己の信念が必ずしも絶対でないことを認めろ」という必ずしもキリスト教だけではない、グレーな選択を促している。

「環境が違えば、育つ作物も違う」という井上筑後守のロジックはむしろ人情味にあふれるように聞こえてしまう。

だが、一見すると、多様性を認めているようなこのロジックに、日本が「沼」と呼ばれた理由がある。

 

キリスト教か仏教か!と迫られた人は、明確に自分のアイデンティティを保つことをゆるされる。殺されるかもしれないが、自己の所在は明確で一貫している。

一方、「仏教だとは言わなくてもいいから、キリスト教ではないことを認めよ」と言われた人は、内心とは関係なく社会的に自らのアイデンティティを否定することで、キリスト教にも仏教にも属さない、第三の身分に貶められてしまう。

さらには、厄介なことに日本の社会はこの不名誉な背信さえ、糾弾されるどころかむしろ「自然の理」だとして受け入れ、時には周囲から同情さえ与えてしまう(実際にこの映画のテーマはそうして妻子を与えられ、幕府の庇護のもと生きたかつての宣教師たちだ)。

こうした厚遇にあまんじさせられ、魔女狩りのように殺されるわけでもなく、ただ定期的な踏み絵や転び証文(キリスト教から転向したことを追認する覚書)を通して、この中途半端で救われることのない身分で生き続けることを強要されるのである。

表面的には生活が保障された代わりに、内的自己と外的自己はねじれたまま生きることになる(甘んじて生き続けることを選択する度に、自己は傷ついていくが、白黒つけることが求められないために、この矛盾はあいまいなまま放置される)。

 

遠藤周作が取り上げた背信宣教師たちは、まさに社会的な骨抜き状態で生かされ続けるのである(もちろん、個々人の心の中での信仰は残った可能性は十分にあるが、それは宣教師が当初与えられていた社会的使命の大きさと比べれば、見る影もない)。

 

あいまいさという人間的な非人間化システム

この「あいまい」こそが、一見人間的な「誰しも本音と建前がある」というロジックで人の思想と社会的立場にねじれを生み、人間としての本質的な存在の中核を奪い去ってしまう。

あいまいでゆるされるということ自体が、自分の誇りや中核をもたせてもらえない状況に直結するからだ。

あいまいさは殉教を許さず、はたまた転向後に一人前の社会の構成員になることも許してはくれない。

あくまでも「生かされた」状態にしておくことで、権力の支配を象徴的に知らしめつつ、異端者の牙を抜く。

そんな「調和を重んじ温厚」に見える江戸時代の日本の異端への対処を通じて、迫害という顕在化した暴力よりも、二級市民を生み続ける目に見えない社会的な暴力の方がはるかに強力であることを、この映画は示しているのではないだろうか。