気候変動スタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀をしていましたが、気候変動スタートアップを創業するためスタンフォードにいます。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

2022年「而立の年」から、2023年「Black Outの年」へ

2022年「而立の年」の振り返り

2022年は、自分の人生にとって大きな転換点となりました。

20代の熱量の集大成とも呼べるKomazaでの仕事を終え、スタンフォード大学経営大学院に進学したことで、様々なことが一変しました。

年初に而立と宣言したはよいものの、せいぜい立膝ぐらいのものだったなとも思います。

とにかく、体制を立てようともがきながらも流されて、何とか片方の膝くらいは、まっすぐになったというのが本音でしょうか。

あらゆる変化がどっと押し寄せる中で、翻弄されながら、自分の中で変わらず大切なものを、確認して強化していくプロセスになりました。

 

Komazaでの仕事

Komazaでの仕事は、大学院の授業が始まるまで続けました。

LDNからのデット調達をもって、エクイティからデット、メザニンに至る一通りのファイナンスを経験することができ、在任中の調達総額50百万ドル超という結果を残すことができました。

ケニアにおけるスタートアップの資金調達の総額が年間400-600百万ドルといわれるなか、それなりに意味のある規模のファイナンスを、林業xテックという先進国であってもトリッキーな領域で実行できたことは、20代裸一貫で飛び込んだ身としては、ひとつの自信です。

カーボンクレジットや証券化などの大切な関連領域でも貴重な経験ができました。

新卒のときの上司から「金融は実務能力だけでなく抽象的な思考を求められる」といわれて、ファイナンス的な思考を応用する面白さを教わったのですが、多少なりとも実践できたのではないかと思います。

 

CFO業というと、事業と外界をつなぐ架け橋といえば、聞こえは良いのですが、実際は事業をRepresentするために”Don’t get bullied"と自分に言い聞かせながら戦い続ける毎日で、ファイナンスについて学んだことよりも、人間や社会の性質について考えさせられる機会の多い仕事でした。なによりも、自分の至らなさ、人間の弱さを痛感した5年でした。

スタートアップファイナンスは守りを求められる局面が少なくないのですが、「Financing InnovationがBusiness Innovationと同じ力を持つときに事業の可能性は最大化される」という自分なりの確信を持っています。

そして、Capital IntensiveでLong-Termな事業こそが、社会に意義のあるインパクトをもたらす、自分が生涯をかけるフィールドになるというキャリアについての一応の結論も出すことができました。

 

奇跡を起こせているか、非線形的な結果をうめているか、という問いは、常に向き合ってきた問いです。

振り返れば傲慢なのですが、自分の野心は、事業の歴史を振り返ったときに、「あの時の仕事が流れを変えた」と言ってもらえる瞬間や仕事をいかにつくれるかにあったように思います。

こうした瞬間は、チームの努力で生まれることがほとんどです。自分一人でできることなんて、とりわけファイナンスという役割であれば、ほとんどありません。

今年の製材工場の落成は、そんな瞬間でした。

「何のためにファイナンスをしてきたのか」という問いの答えは、「事業を作るため」なのですが、「作る」の一例が会社にとってマイルストーンになるだけでなく、ケニアや東アフリカの業界にも大きなニュースとして取り上げられるのを見るにつけ、今でも胸が熱くなります。


時期を同じくして、憲法に国土に占める森林率を明記して植林活動を推進してきたケニヤッタ大統領(当時)との対面も果たすことができました。

イノベーションの目指すべきところは、「当たり前になること」(Mainstreaming)にあります。

政府やローカルのステークホルダーにきちんとパートナーとして認知されるのは、とてもありがたいことですし、ケニアのように過激なくらいまっすぐに環境政策を実施していく前のめりな姿勢は、むしろ先進国こそ学ぶところがあるのではないかと思います。

 

 

振り返りが長くなってしまいましたが、Komazaでの経験についてはこの記事でもまとめています。

最後まで仕事を共にしたチームには感謝と尊敬以外に言葉が見つかりません。

職業人としても、人間としても、優秀で熱意あふれるチームひとりひとりから、本当に多くを学ばせてもらいました。

事業に対する熱意と現場での課題解決力を持ち、僕以上に優れたビジョンを描いているチームのメンバーが、どんな事業を作っていくのか、心から信じて応援しています。

 

スタートアップでの仕事について考えたこと

仕事でギリギリ追い詰められているときこそ、大局観に立ち返って大切な論点を整理するようにしています。

今年は、不可能といわれる挑戦をするときのファイティングポーズの取り方、参謀としての役割が進化するプロセス、そしてベンチャーにおける「難しさ」のマネジメントについて書きました。

毎度のことながら、分かったから書くのではなく、大切なことなのに分からないから無理やり言語化を試みている、といった方が正しいかもしれません。

 

スタンフォードビジネススクール

留学の経緯と最初の学期の感想戦は、こちらの記事にある通りです。

 

結論から言うと、本当に苦戦しました。

クラスもイベントもぎゅうぎゅうに詰まっている中で、自分なりのテーマを定義してプロジェクトを考えようと必死にもがいていた気がします。

考えるも何も、新しい環境で、仲間もいなければ応援してくれる人もいないなか、自分が何者でもないところから、信頼関係をゼロから作っていかねばならないのは、不可能ではないもののかなりエネルギーが必要です。

 

自分にとってのビジネススクールは、勉強というインプットの時間というよりは、起業というアウトプットの時間になるはずでした。

しかし、インプットとアウトプットをつなぐ、自分そのもののあり方、生き方、生きる意味、果たすべき役割を明確にしないかぎり、何をしてもアウトプットとしては価値を持たないということに気づかされます。

自分の至らなさを可視化し理解する場として、ビジネスや経営に関する授業の一回一回が滝に打たれるような感覚で、未来を考える気力が全く出ませんでした。

現場で立ち回るときのアドレナリンを抜いてしまえば、自分の仕事は、いかに至らなかったのか、あらゆる場面が頭に浮かんで、吐き気をこらえて出ていた授業が何度となくありました。

 

仕事をしていれば、学んだことを活かす場があるものの、学生という立場は世界の食客であり、無意味で無価値です(Unless you prove otherwise)。

課題や他者に自分の創造意欲を仮託しなければならなかった自分の弱さを、今になって直視することにもなりました。

プロジェクトをどう立ち上げればよいのか、あらゆるピースをまとめようにも、新しい環境の使い方が今一つよくわからずに、焦りは募るばかり。

優秀で多様な学生が集まり、最高の教授陣とエコシステムに囲まれているだけに、溺れるようにして足掻く自分がもどかしくもあり、"Trust the Process"と自分に言って聞かせる毎日でした。

 

Thanksgivingで休みを取って、冬休みに読書しながら考え事をして、ようやく少し落ち着いて、新しい挑戦にふさわしい心づもりが整ってきたように思います。

大学の仕組みもわかってきて、焦りもがきながら自分をバラバラにして問い直したからこそ、新しい土台をしっかり踏みしめて立ち上がることができそうです。

何のために生きているのか、人生を無駄にしてしまったのではないか、これまでの仕事に価値はなかったのではないか、とまで思いつめたからこそ、揺るぎのないものを自分の中に確認できました。

新しい環境で誰も助けてくれる人がいないからこそ、自らの手で光明を掴まねばならなかったのは、幸いかもしれません。

 

そんな悩み多き数か月に翻弄されていたものの、スタートアップの人間として、ファイティングポーズは下ろさないことは決めていました。

日本人初の全額奨学生Knight Hennessy ScholarsとしてForbes Japanさんにも取材頂いたほか、尊敬する同年代の友人であるNakajiさんにもPodcastをとって頂きました。

Forbesの記事では、スタンフォードのエコシステムの懐の深さやスケールについて、Nakajiさんのインタビューではスタンフォードに至るまでのキャリアや意思決定について丁寧に取材頂いて、まったく違う内容になっています。

過去のことは過去として未来をのみ語るべきかもしれませんが、ブログを始めて10年以上たって、何度となく読者の方々に救われてきた経験もあり、応援してくれる人に対するアカウンタビリティのようなものとして、自分の道のりを整理して発信することは、これからも続けていきたいと思います。

 

 

2023年は「Black Outの年」

 

今年は、気候変動と水をテーマに、起業します。

気候変動という21世紀の大テーマの中でも、Komazaで取り組んだ農林業のみならず、気候変動による温暖化・気候リスクの高まりの先にある、人類の活動の変化にとっても大切なテーマです。

今学期は、「水とビジネス」の授業と「Design For Extreme Affordability」というデザインスクールのプロダクトのクラスを履修しつつ、具体的な調査をする予定です。

普通で言えば、夏休みはMBA生にとって就活の山場なのですが、一般的なインターンはしない予定です。

この挑戦のために全額奨学金でスタンフォードに来たはずなので、起業のために必要な経験をしたいと思います。

やんちゃに世界中で挑戦ばかりしてきた自分も、時々グローバルな不況の波やら、卒業後給料がX千万円が普通の同級生たちを目の当たりにして、常識的なキャリア観に立ち返ることがあるのですが、久しぶりに良い意味でヒリヒリしています。

大きなテーマや構造で世界を捉え、そこから自分がやるべきことを定義して、(ビビりながら)淡々と実行する、というのは学部生で慶應からブラウンに編入した当初から一貫している戦略であり、今回も同じと腹を決めました。

 

タイトルは、去年、セコイアのDoug Leoneの講演会でのやりとりからの引用です。

講演会の最後、真っ先に手を挙げて、「マーケットサイクルを何度も経験したとも思うが、気候変動のように今波が来ている業界で起業するときには、市場の波や変化とどう向き合えばいいのか?」と質問したとき、「Black Outしろ(意訳:わき目を振るな)、今世の中に出ているものは1年以上前に仕込まれたものだから、競争しても仕方ない。事業の価値に集中あるのみ」という趣旨の答えが返ってきました。

スタンフォードで気候変動でスタートアップというのは、良くも悪くも世界の中心であり頂上で勝負をすること。

だからこそ、フォーカスを失わず、自分の軸をぶらさずにいるのは、難しくもあります。

おそらく、頂上で戦うべきは世界でも、マーケットでも、優秀な同級生でも、競合でもなく、自分です。

 

スタンフォードでやるべきことの根幹は、先に紹介した参謀論のブログの一説がそのまま当てはまるのではないかと思います。

個人、チーム、事業、いずれのレベルにおいても、閉じた世界でExcellenceを追求するだけでは、優れた成果は生まれない。

高い目標を追いかけるだけでは、既存の枠組みの延長上に自己を規定している点で、模倣の域を出ない。

最初は誰もがベンチャーの課題解決に合わせて自分を適応させ、Make Oneself Usefulとなることが求められる。

しかし最終的には、困難に適応するために自分を作り上げるのではなく、あるべき姿を自分で定義しなければならない。

「より良い」ではなく、異なる「良さ」のなかから、自分なりに「良さ」を選択して、守り通すために努力をしなければならない。

困難を捌くために戦うのか、理想を貫くために戦うのかでは、同じような挑戦であっても長い目で見た意味合いは似て非なるものだ。

目標ではなく、理想を定義しなければ、職業人としてのスタート地点には立てないのではないか。

 

冬休みにお会いした起業家から、「登る山を決めるのが、起業家にしかできない究極の仕事」という言葉を聞いて、ハッとしました。

様々なメンバーとチームを作って課題解決するのが前提の起業家にも、(まれにみる偶発的、奇跡的な起業をのぞけば)たった一人だけで事業の構想を練り始めた起点があるはずというのは、考えてもみれば当然のことかもしれません。

0 to 1の0 to 0.1にある産みの苦しみと運命性は、おそらく本当の意味で創業者だけの世界なのだと思います。

 

社会人になってからというもの、職業人としての基本は、約束を守ることにありました。

難しい課題であっても、スコープを確認し、取りうるリスクを測ったうえで、進捗を見極め、どれくらいできるか、できないかを判断する。

約束できる範囲とできない範囲を明確に伝えつつ、ときにストレッチされても、一度コミットした結果は、そのまま実現せずとも、相手の納得いく形で達成しようとしてきました。

起業に取り組む気はないのかと、聞かれるたびに、確実にコミットできない約束をしていいのか、という思いが頭をよりぎります。

職業人として誠実さの基準では、起業家のビジョンや目標はあまりに遠い存在に思えたからこそ、新卒は総合商社にあっても金融事業、スタートアップでは参謀役というポジションをとってきました。

 

同時に、スタートアップで働いた5年間で、失敗の可能性がある大きな挑戦をすることの意味が、おぼろげながらわかってきた気がします。

できるできない関係なく、「挑戦する意義のある理想は何なのか?」という問いに向き合うと、優秀な人が社員になり、アドバイザーになり、投資家になり、誰もが想像しなかった未来が生まれるのです。

自分では力不足なのではないか、と疑いながらも、まあやってみよう、と腕をまくって挑んだ先に見えるのが、自分の限界なのか、新しい景色なのかは、今の自分にはわかりません。

ただ、Knight Hennessy Scholarのオリエンテーションでもらった、サイン入りの本にあった、Just Do It!という言葉のままに、やってみようと思います。

 

原民喜「鎮魂歌」

世界中から学生が集まる場所で、戦争と平和や、倫理の話になった。流血の有無にかかわらず、人々の苦しみや記憶と向き合い続けることは、リーダーに求められる普遍的な資質だと思う。過去に囚われては前に進めず、未来だけを語っても軽々しく感じられてしまう。人々の経験のコンテクストをくみ取りながら、今日と明日をつなげられるか、という難しい問いに触れるたび、原民喜の「鎮魂歌」を思い出す。感受性を剝き出しにして苦悶に満ちた生き方をした作者が、被爆の記憶と自らの家族の不幸を織り重ねた文学から感じ取れるものは決して少なくないのではないか。
評:原爆の悲劇を伝える生々しい叙事詩としてこの鎮魂歌を捉えることは誰にだって出来るだろう。この作品の白眉は、混沌とした最終局面にある。原爆という非日常は、作者の強烈な感受性によって捉えなおされ、日常とつながりを持つ。重層的な呼びかけに、死者の魂は呼び起こされ、統合され、ついには生ける者たちと一つになる。鎮魂とは、本来死後の世界での安らぎであろうが、この歌の行きつく先は、生者の安息であり、生命への賛美である。民喜は、誰よりも鋭利な感受性で全世界を受け止め、人類の悲しみを聖職者のごとく一身に背負った。そして、彼が目撃した広島の悲劇と無数の叫び声と彼個人の嘆きを統合することで、生きながら死者を代弁し、同時に自らの苦悩をも表現しえた。数多の犠牲者たちの匿名の叫び声は、亡くなってしまった肉親や友人たちの面影と同一になることで、鮮明に、力強くこだまする。繊細な彼の感受性もまた、身近な人々への思慕を超えて、無数の嘆きに呼応し、増幅され、普遍性を獲得する。彼が物語る相手は、追憶に蘇る愛しき人々であり、人類すべてである。耳を傾けよ、彼の嘆きに。人類の悲しみに。されど、明日は訪れん。そして、世界は変わることなく美しい。この鎮魂歌に、彼岸と此岸の別は存在しない。

以下、特に印象的だった結末部を抜萃する。

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僕は突離された人間だ。還るところを失つた人間だ。突離された人間に救ひはない。還るところを失つた人間に救ひはない。

では、僕はこれで全部終わつたのか。僕のなかには何もないのか。僕は回転しなくてもいいのか。僕は存在しなくてもいいのか。違ふ。それも違ふ。僕は僕に飛びついても云ふ。

......僕にはある。

僕にはある。僕にはある。僕にはまだ嘆きがあるのだ。僕にはある。僕にはある。僕には一つの嘆きがある。僕にはある。僕にはある。僕には無数の嘆きがある。

一つの嘆きは無数の嘆きと結びつく。無数の嘆きは一つの嘆きと鳴りひびく。僕は僕に鳴りひびく。鳴りひびく。鳴りひびく。嘆きは僕と結びつく。僕は結びつく。僕は無数と結びつく。鳴りひびく。無数の嘆きは鳴りひびく。鳴りひびく。一つの嘆きは鳴りひびく。鳴りひびく。一つの嘆きは無数のやうに。結びつく、一つの嘆きは無数のやうに。一つのやうに、無数のやうに。鳴りひびく。結びつく。嘆きは嘆きに鳴りひびく。嘆きのかなた、嘆きのかなた、嘆きのかなたまで、鳴りひびき、結びつき、一つのやうに、無数のやうに......。

 

一つの嘆きよ、僕をつらぬけ。無数の嘆きよ、僕をつらぬけ。僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。嘆きよ、嘆きよ、僕をつらぬけ。......戻つて来た、戻つて来た、僕の歌ごゑが僕にまた戻つて来た。これは僕の錯乱だらうか。これは僕の無限回転だらうか。だが、戻つて来るやうだ、戻つてくるやうだ。何かが今しきりに戻つて来るやうだ。僕のなかに僕のすべてが......。

 

(略)

 

生の深みに、......僕は死の重みを背負ひながら生の深みに......。死者よ、死者よ、僕をこの生の深みに沈め導いて行つてくれるのは、おんみたちの嘆きのせゐだ。日が日に積み重なり時間が時間と隔たつてゆき、遥かなるものは、もう、もの音もしないが、ああ、この生の深みより、あふぎ見る、空間の荘厳さ。幻たちはゐる。幻たちは幻たちは嘗て最もあざやかに僕を引き付けた面影となつて僕の祈願にゐる。

 

(略)

 

死者よ、死者よ、僕を生の深みに沈めてくれるのは.....ああ、この生の深みより仰ぎ見るおんみたちの静けさ。

僕は堪へよ。静けさに堪へよ。幻に堪へよ。堪へて堪へて堪へてゆくことに堪へよ。一つの嘆きに堪へよ。無数の嘆きに堪へよ。嘆きよ、嘆きよ、僕をつらぬけ。還るところを失つた僕をつらぬけ。突き離された世界の僕をつらぬけ。

明日、太陽は再びのぼり花々は地に咲きあふれ、明日、小鳥たちは晴れやかに囀るだろう。地よ、地よ、つねに美しく感動に満ちあふれよ。明日、僕は感動をもつてそこを通り過ぎるだろう。

スタンフォード12-16週目:MBA1学期目のクラスのまとめと振り返り

最初の学期は、全科目必修。とはいえ、Finance、Accounting、OSMの3科目は、経験に応じてBase/Accelerated/Advancedを選択していく形だったので、多少の自由は効く。

学期の始まりに、好奇心とFear of Missing Outに引っ張られて上級クラスを取りすぎてしまった気がするものの、得るものが多い学期だった。

期末試験後の今のうちに、各クラスのハイライトをメモしておきたい。

 

①Global Financial Reporting:

  • 総評:IFRSを軸に、Revenue Recognition、Lease、Securitization、Pension、Tax Asset/Liabilityなど主要テーマをケースで取り扱う。ゲストレクチャーでは、エンロンの不正を最初に指摘したジャーナリストが出てくるなど、単なる知識の詰込みではなく、会計を批判的に理解して、意思決定どうつなげるのか、というガバナンスが伏線として意識されていた。毎回のクラスが、知識のおさらいもそこそこに、Corner Caseのディスカッションになっていて、面白い。
  • Takeaway:経営陣も株主も、監査人も、ジャーナリストも、ステークホルダーが各々インセンティブを持ち、それぞれアクセスできる情報も限られているので、「中立で客観的な判断」は、ほとんど存在しない。エンロン疑惑は、ある若いジャーナリストが”How does Enron make money?”という質問をCFOに投げかけて、満足のいく答えが得られなかった出来事を発端とする。会計は複雑で重層的な分野であるが、答えが複数だとしても、必ず正当化できる説明はあるはずで、めんどくさがらずに、質問を重ねていくのが大事。"How does this business make money?"や”How does this business work?"、”Where do these numbers come from?"というシンプルな質問の大切さを忘れてはいけない。また、ルールに沿った会計処理以上に、会計処理とそれに伴う一連のコミュニケーションは、ビジネスへの理解と経営の方針、ガバナンスの成熟度を示すリトマス紙でもある。

 

Money and Banking:

  • 総評:中央銀行の金融政策を中心に、債券市場、インフレ、労働市場という、まさにこの半年間の国際経済の議論の中心を捉えた授業。「20年間面白くなかったこの分野が、ついに面白くなってきた。この授業はFinanceではなくてEconomicsになるので、ついてこれると思う人はついてきなさい」という教授の宣言通り、毎週のようにCPIやPolicy Annoucementを追いかけながら、身につく勉強ができた。

  • Takeaway:リーマンショック後に社会人になって、日本ではマイナス金利、グローバルにも超低金利の緩和された世界に慣れ切っていると、新興国では当たり前のインフレという概念に対する体感的な理解が得られていなかったことに気付いた。経済成長せず、インフレせず、人口変わらず、労働人口は減少する、という日本の設定そのものの奇異さが目立ったし、同時にヨーロッパの先進国や北米の一部地域にみられる先進国が衰退していくプロセスと重ねても、考えるべき内容が多かった。同時に、「国債保有を通じて世界の通貨の頂点にあるドルの強力なValue Propositionは、世界中から低利の国債で資金を調達し、国内においてはイノベーション、国外においては多様な事業・アセットに投資するヘッジファンドのような経済運営を可能たらしめた」という教授のAmerican Hegemony論は、多元化する世界においてなおアメリカの影響力が盤石であることを印象付けた。また、中央銀行機能の変遷も、興味深いテーマ。中央銀行が、Reserveを通じた銀行間取引の安定に始まり、IORを通じた金利の調整や、Total Reserveを通じた流動性のコントロールなど、追加的にマンデートを拡大してきたのは、中央銀行機能の高次化・多様化ともとれるし、世界経済というシステムを何とか維持するためのイタチごっことも解釈される。コロナ化後のインフレは終息に向かいつつあるが、急速なゼロ金利から4パーセント後半という急速な利上げの潜在的なインパクトや、イールドカーブから読み取れる数年内の景気後退の深さ、財政出動の結果として増え続ける国債の信用力など、目が離せないテーマが多い。

 

③Operational Simulation and Modeling:

  • 総評:スタートアップやテック企業とのコンサルも手掛ける新進気鋭の教授によるモデリングと最適化の授業。エクセルとOracle Crystalballというクラシックなツールを使いながら、オペレーションのモデルを組んで、最適化をしていく。実務で使うべきはPythonだと教授は断言していたが、頭の使い方、モデルの組み方が、財務モデルとは根本的に違って、頭の体操になった。モデルの数式や技法よりも、抽象的に論点を組み立てていくプロセスがエレガント。
  • Takeaway:技術的には、最適化やモデリングは、自分で手を動かしながら考え方を身に着けておくとよい領域。Pythonによらずとも、様々な簡易ツールやオープンソースのソフトウェアも出てきているので、データヘビーだからといって、尻込みせずに触ってみる好奇心が大事。分析に当たっては、いわゆるデータ企業と呼ばれる領域でも、ほとんどの会社がきちんとしたメトリクスの定義・測定・実証実験ができていない。というのも、データもモデルも、経営そのものへの理解や現象を説明する洞察力といった、ビジネス面での抽象的思考能力によって、意味合いが全く変わってくる。マネジメントとして、データを苦手分野にしすることは、今の時代に許されないが、思考の枠組みを身に着けたなら、変に遠慮せずにビジネスの構造化能力を生かして、データサイエンティストと協力することが、インパクトのある成果につながる。裏を返せば、Objectiveは何か、UncontrollableなInputは何か、ControllableなDecision Variableは何か、といった基本的な問いにビジネスの本質が詰まっていることがある。また、資産としてみると、データの総量が増えるにつれて、経済価値は等比級数的に上昇する一方、データ分析の質・制度によって事業に与えるインパクトはシリーズB-D程度の中規模企業の方が大きい。データで世界を変える仕事をするなら、大企業ばかり見ていてはいけない。

 

Leadership Lab:

  • 総評:6人の学生が一つのグループとなってロールプレイを繰り返す。各ロールプレーでは、一人の学生が実演するたびに、もう一人がリアルタイムのフィードバックを記録する。Action-Impact Frameworkというフォーマットに沿って、「何をObserveしたか」そして、「それがどのような印象を与えたか」を記録し、共有する。クラスの最終回は、アルムナイも多数参加したリアルなケース大会。
  • Takeaway:新入社員の時は、もらったフィードバックや自分で気づいた改善点をメモしていたが、改善を繰り返すうちに、自分にとって「気になる部分」というのが固定化されていってしまう(Confirmation Bias)。周囲にフィードバックを求めるときも、最初から特定の部分ばかりきになってしまって、「何が良くて、何が良くないか」をオープンにフィードバックしてもらう機会が減っていた。Lead Labの特徴であるAction Impact Frameworkをしていると、同じActionに注目していても、自分の想像とは真逆のImpactになっていたことが何度もあった。これは、自分自身の見え方に対する「思い込み」であったりスティグマだったりする。Actionそのものの見落としと、Action→Impactの変換は、どちらも定期的にレビューするべき。 対人コミュニケーションは、あらゆるマネジメントの根幹である反面、コミュニケーションの質だけにこだわっていると、実行力とのバランスを失ってしまう。少なくともビジネスの世界では、多少のトレードオフを恐れずに、次の3点を意識してバランスをとる。プロセス・人間関係がどんなに充実していても、結果を出せないマネジメントは、マネジメントとしては無能である。
    • Task Effectiveness:あらかじめ設定した目的を達成すること。
    • Relationship Management:チームやカウンターパートとの信頼関係を築く・保つ・毀損しないこと。
    • Process Management:上記2つを達成するために必要なプロセスを意図をもって設計し、実行すること。

 

Strategic Management:

  • 総評:スタートアップやサーチファンドの事例をベースに、シリアルアントレプレナーでVCのパートナーも務める実務家の教授の指導の下、ロールプレーベースで経営の重要局面での立居振舞を学ぶ。課題発見、メンバーの解任、昇進の判断、リーダーとしての意思決定の線引きなど、センシティブな内容を一挙手一投足やりながら学んでいく。取締役会と起業家・CXOのダイナミクス、投資家と経営陣の関係のあるべき姿、Empowermentとなし崩しの違いなど、具体的な事例の数々がとても勉強になった。
  • Takeaway:シリアルアントレプレナーで、今はVCとして投資先の取締役を務める教授の言葉遣いと間合いが、実践における細かく一貫したコミュニケーションの重要性を教えてくれた。ロールプレーの後に聞かれる、"Did you achieve what you wanted to achieve in this meeting?"という質問は、アジェンダを網羅できたか、というよりも、メタなレベルの目標を認識し、それに向けて準備し、セッションを通じて達成できたか、という高次な達成度を問うていた。あらゆる意思決定には、個別の判断以上に、組織に発するメッセージがあり、CEOはチームをまとめる職責上、メッセージの一貫性を何よりも大切にしなくてはいけない。エンパシーを持つとか、みんなで創るとか、ベンチャーには美談がつきものだが、実際は高エネルギーを持つ少数が、はっきりとした目標・目的を持ち、一貫したメッセージを細かな判断を通じて組織に伝えていくことが、怒涛の如く押し寄せるモメンタムに流されることなく、経営するための根幹になる。"The purpose of this meeting is..."という言葉で会議を始められるか、はっきりと何のために、何をどのように議論するか、明確なイメージを持っているか、あらゆる場面で自問すべき。経営陣、従業員、起業家、投資家、取締役など、様々な利害が混線するときこそ、相手の話を聞きながらも、筋を通してオープンに伝え続ける胆力と粘り強さが大事になる。

 

Organizational Behavior / Managing Groups & Teams:

  • 総評:組織論、というと、組織構造やマネジメントスタイルの議論を想像してしまうが、社会心理学的な内容が中心。実験的な内容もあって、交渉や意思決定のケースでは、多様なバックグラウンドをもつ優秀なメンバーが、いかに教科書通りの愚かな行動をとるか、実感させられた笑。
  • Takeaway:経営の意思決定において、心理学的なバイアスは遍く存在していて、「中立な意思決定」というものは存在しえない。理性的に行動している・意思決定していると思うことこそ、優秀な経営陣が判断ミスを重ねる温床になっている(過ちは意識的ではなく、無意識に起こるから)。だからこそ、有害なバイアスを最小化するには経営者の意識改革だけではだめで、構造上の措置を重ねていくしかない。意思決定の前に、自分の状況を典型的なバイアスに照らして点検し、プロセスそのものにバイアスを増幅させる仕組みがないか、考えてから臨むこと。

 

Lead with Values:

  • 総評:昨今の時代を踏まえて、ESGやCSRなどの源流をなす、Ethicsに関する授業。前半はMoral Intuitionをテーマに、人が陥りやすい一面的な倫理観や心理学的なバイアスについて、後半はMoral Reasoningをテーマにカントやロールズなどを参照しながら「どうあるべきか」について学ぶ。学生から集められたジレンマのケースでのディスカッションが白熱していた。
  • Takeaway:Management Ethicsは、持つべきものから持たなばならないものになっている(Managementは株主のInterestの最大化に寄与すると説明できる範囲内において、目先の利益以外の価値を優先することをFiduciary Dutyの一部として法的に認められている)。一方で、事業環境、チーム、ステークホルダー、あらゆる面で多様性が必然になる中で、「かくあるべし」という単一的な価値基準では、ビジネスの意思決定を下せない。人々の価値観が急激に変わっていく中で、「どう考えるべきか」さえもイデオロギーに頼っていては、あっという間に取り残されてしまう。したがって、どう考えるかではなく、何を考えるか、をフレームワークとして持つべき。ざっくりまとめると以下の通り。
    • 心理学的なバイアス:人には「正しい」と思う価値観のセットがインプットされている(e.g. HaidtのMoral Foundations)。自分が直感的に「正しい」と感じた時こそ、Moral Intuititonを立ち止まって分類し、Moral Reasoningをすべき。組織論でみられる様々なバイアスも要注意。
    • 動機:意図の方向性が正しいか。他者を利用するだけではないか?自分だけがずるをして、ほかの人が全員やったら破綻するような身勝手な意思決定になっていないか?見落としている選択肢はないか?
    • プロセス:プロセスに公平性が担保されているか。特定の方向にバイアスがかかっていないか。自由で独立した意思決定・参加が行えているか?
    • 結果:行動の結果はどのようなものか?自分だけではなく、社会に対して便益をもたらしているか?受け入れなければならないトレードオフは何か?
    • 検証:重要な意思決定こそ、事後に批判的に検証する必要がある。記憶は感情によって修正されてしまうし、当時は「見えていなかった」ほかの選択肢が、後になって出てくることもある。

 

まとめとふりかえり:

「MBAで、いまさら勉強しなくてならないことなんてあるのか?」とよく尋ねられる。

結論から言うと、たくさんあった。

最初の学期は、すべて必修科目であり、職務経験に基づいて難易度分けはされるものの、テーマとしてはMBAプログラムの基底をなす、テクニカルな科目とソフトスキルに特化した科目がバランスよく合わさっていた。

会計やモデリングのようなテクニカルな科目であっても、他業種・他業界の学生の発言から思わぬ発見があったりするし、教科書的に主要なテーマをさらっていくと、専門書で独学していた時は読み流してしまった部分も細かく勉強することになる。

また、同じ「モデリング」であっても、ファイナンスや経営計画の計数とは違ったアプローチで最適化問題を解いたりすると、細かな手法以上にビジネスそのものへの考え方、構造化への理解が深まった。

 

ソフトなスキルという意味でも、あらゆる授業が徹底的な批判的内省の場となった。

ロールプレイの授業で登場するハードな場面や組織論の授業で教えられるバイアスの恐ろしさは、実体験として馴染みのある世界で、何度となくフラッシュバックする。

「あの時どうすればよかったのか?」という問いに答えが見つかることもあれば、当時は全く気付いていなかったが大きな過ちを犯していたと気づくこともあり、マネジメントにおけるInstitutional Learningというか、まとまった理解の重要性を痛感した。

自分は職業人として現場に立つ資格がないとヘコみながらも、次回はもっとうまくやってやるという執念に燃えている。

 

来学期は、引き続き大半が必修・選択必修であるものの、Design for Extreme Affordabilityのような感覚的なクラスや、ロースクールのクラスも履修する。

自分のプロジェクトの時間の捻出は、引き続き難しくなりそうだが、あらゆる面をカバーする網羅性と最新の知見に触れられる同時性にビジネススクールのカリキュラムの真価はあるので、プロジェクトへの寄与を念頭に置きつつも、視線を広く勉強したい。

また、教授との個人的なつながりも、大切にしていきたい。

 

 

大馬鹿になれるか、という問い

僕がここにいるのは、新しいことをしたいと思ったからだ。

全力で走り抜けた20代で集めてきた経験や理解、感情を、一度バラバラにして、ゼロから組みなおしていくために、あえて今の環境に身を置いている。

バラバラにするとき、自分が当たり前にしてきたことができなくなる。

バラバラにされるのは、自分の不安でもあり、自分の自信でもある。

仕事の波に乗って順調にキャリアを進める友人たちを尻目に見て、自分はなんとバカな遠回りをしているんだろう、と半ばあきれたりもする。

バラバラになった自分に、以前のような安定感はない。

やり慣れた方法をすべて放棄して、ゼロから馬鹿みたいに足掻いている。

もしかしたら、自分は何にもならないかもしれない、という漠然とした不安が、暗澹たる雲のように頭の上を覆うとき、叫び返す言葉を持たない。

まして、周囲から、素晴らしい環境で、前途浩々だ、などといわれても、同じ世界のものだとは思えない。

一度大馬鹿になってたくさんの失敗をしながら、自分なりに考えを持とうとしてスタンフォードに来たわけで、エリート然としてかっこつけたところで、何にもならない。

この不安は正しい不安だ、そう言い聞かせる。

 

ただ、愚鈍の極みと知りながら、一つ一つ経験をバラバラにする。

新しい出会いがあり、世界観に触れたり、経験をする。

今すぐに答えを出したい焦りをなだめながら、自分なりにはまりのよい組み上げ方を考える。

ひらめきを渇望する気持ちに対して、どっしり構えることができているか?

今までの自分を忘れて、新しく世界を捉えなおそうとできているか?

発想を練り上げるときのカギとなりうる小断片を、積み上げているか?

時間のかかる考え事に、気持ちを向けられているか?

膨大なインプットを自分の中で整理できているか?

思考と情報を単に統合するだけではなく、自分なりの断面から世界を捉えることができているか?

内向的なプロセスを、ペースを守って進めていく。歩みは遅くとも、確実ではないかと、どこか確信めいた感触がある。

 

この前まで自分が生きがいにしていたスタートアップの世界は、毎日が戦場だった。

難問や難局が毎日のようにやってきて、退屈することがない。

そして、本当に自分の実力がどれほどのものか、覚悟の深さはいかほどか、成功への執念はあるかが、問われていく厳しい世界だ。

だからこそ、生き抜く中で感じたこと、得るものは、絶対的な確信につながる。

「よいことをしたい」という気持ちではなく、「何が善なのか」という明確な価値基準が、強制的に生まれる。

その基準、世界を測り、人を見つめる尺度をもってして、自由な発想をぶつけた時に、何が生まれるのか、ということに僕は興味を持っている。

その実験がしたくて、わざわざ今の環境までやってきたのだ。

だから、僕が大馬鹿になって、ゼロから考え事をして、みっともない失敗をしているのは、普通の挑戦とは重さが違うはずだ。

昔の仲間たちをあっと驚かせるアイデアは何か、自分にしかできない意味のある仕事は何か、自分は何のために生きるのか、極限まで突き詰めるための出発点に立っているのだと思う。

だからこそ、勇気をもって振り抜きたい。

 

 

非線形的な変化をもたらすもの

全体の戦局なり結果が見えない時に、注目すべきははやり次の一手であろう。

本当は、だれしもが未来に対して確証を持って次の一手を決めたいと思っている。

だが、実際には、確証を持てる意思決定など、ほとんど存在しないし、最も価値のある意思決定は不確実性の中で生まれる。

次の一手に何を期待するか、どこまでの熱量を込められるか、あるいはあえて軽くとらえてみるのかは、本人の裁量に任せられる。

複数の未来の結果を比べることはできず、人が不確実性を受け入れるというとき、本当に辛いのは最悪の結果を受け入れることではなく、結果に至る道のりの不安に耐えることかもしれない。

 

人は本能的に、未来を予見し、結果をコントロールしたいと欲する。

それでいて、いざ未来が手中に入ると、今までとは違った何かを求めたり、非線形的な変化を期待してしまう。

思い通りの現実を手にする充足感と、未知の神秘に遭遇することへの期待感は、等しく存在する。

未来に対する人の期待と不安は、自己矛盾を抱えている。

 

意義の大きい挑戦に、確かさは存在しない。

だからこそ、判断の確かさではなく、正しさにコミットしなくてはならない。

ただ前を向いて、進み続けなければいけない。

判断や行動の結果に未来があるならば、判断や行動の指針が正しければ、未来もまたそれに従うはずである。

短い目でみて反応が薄くとも、一貫してやり続けること、あるいは途中でやめないことには価値がある。

自分を信じるというよりも、指針と自らの前向きさ、善意を信じて、行動し続けるしかないのだ。

続ける根拠は何だってよいのかもしれない。思考でも、研究でも、感情でも、直感でも、経験でも、あるいは友人の言葉でも、やめないための理由はなんだってよいはずだ。

 

非線形的な変化は、確からしさの先には存在しない。

計画的な飛躍もおそらくまた存在しない。

人がこれほどまでに避けたがる不確実性の重なり合いこそが、非線形的な変化の兆候なのだ。

進み続けた物理的な距離と偶然の産物で、想像以上の成果は生まれる。

厳しく自らを問いながら、距離を伸ばし、偶然が起きやすいように工夫を積んでいく。

謙虚に自問自答を重ねながらも、いじけない。

感性を鋭利に保ちながらも、恐怖に対して鈍感であり続ける。

立っていられなくなってしまいそうなときほど、立ち続ける執念に意味がある。

平気で歩き続けられそうなときほど、立ち止まってみる勇気に意味がある。

そう言い聞かせて、進んでいきたい。