気候変動スタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀をしていましたが、気候変動スタートアップを創業するためスタンフォードにいます。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

244-245週目:ケニヤッタ大統領との対面

先週のハイライトは、コロナ禍でオンライン化していた、ナイロビでの投資家(LP)総会に招かれて、2年以上ぶりに複数の投資家と同時に交流するクローズドなセッション。

2年前、テーマはソーシャルイノベーションやリープフロッグだった記憶があるが、今年は気候変動一色になっていた。

投資家イベントは、"Dance Floor"だとその昔言われたのを思い出す。

踊る人は同じでも、音楽が変わればDance Floorでの立居振舞も変わっていく。

事業の価値を見つめ直し、ストーリーを再構成する。

メンバーは変わらないので、事業側のストーリーと、投資家側のフォーカスとの組み合わせで新しい企画が生まれていく。

1対1で仕事を進めるのも大切なのだが、案件が動くのは複数の投資家と同時に話しているときだったりするので、ダイナミクスの多様性のためにもクローズドな集まりは大切だと再認識した。

イベント後も夜中まで飲み歩いて突っ込んだ話をしたりすると、懐かしい気持ちになった。

誰もが思いをもってアフリカベンチャーに関わっているので、所属を離れて青臭い議論をする場は居心地がいい。

プロとして問われるべきは仕事の質でありつつも、人格を通じて仕事ができるようになるとよいなと思う。

 

今週の金曜日は、ケニヤッタ大統領主催Kenya Tree Growth Campaignに招かれて、大統領宮殿へ。

気候変動界隈、ビジネス界、林業・森林保護界隈のトップが軒並み200人近く出席していた。

Ministry of Environment and Forestryの大臣による"Your Excellency..."で始まるスピーチは、今まで聞いたことのある最も素晴らしいEurogyだった。

滔々と、事績を述べ、世界の気候変動におけるケニアのリーダーシップをたたえ、かかわったすべての人々を名前を上げて感謝する。

原稿なしでよどみなく、リズムよく、ポイントを押さえて聴衆の心を離さない。10分余りのスピーチに信頼関係がにじみ出ていた。

UNのトップを始めとする開発機関のトップや駐ケニア日本大使、大企業のCEOや商工会議所の会頭などが次々と熱のこもったユーモアあふれるスピーチをする。

秋庭駐ケニア全権大使も主賓として参加されていて、ケニヤッタ大統領からも日本の40年近くに亘るケニア林業への長期的な支援への賛辞が送られた。

こういう会議は形だけのStakeholder Engagementになりがちなのだが、和気藹々とした雰囲気と、政策にかかわった関係者の前のめりな雰囲気が伝わってきて、とてもよかった。

世界に先駆けて、気候変動対策の重要な指標である、森林率を憲法上の目標に掲げた時から、様々なステークホルダーが動いてきたのは、ケニアの林業の現場でも感じる機会が多い。

5パーセント強だった森林率を2030年までに10パーセント以上にするという目標は、2022年時点で12パーセントに到達したとの報告で締めくくられた。

 

実務家として、ケニアの林業政策の是非や森林率の算出方法の評価はここでは論じない。

僕が触発されたのは、先進国が気候変動対策を声高に叫びながら本腰を入れない間に、社会の第一の規範である憲法にまで気候変動を明記して、国家としてコミットしたケニヤッタ大統領の政治家としてのスタンスだ。

日本を含む「先進国」は自問すべきことがあるのではないかと思う。

野心的な目標を前のめりに掲げ、お題目と批判されてなお、ステークホルダーを動員し、世界に向けてメッセージを発しようとする。

実務家としてシニカルに政策を眺めてしまいがちな自分には、まぶしくもあり、心揺さぶる何かがあった。

242-243週目:自然体で仕事をする

仕事は緊張感を伴うもので、出来る限りの準備をして臨みたいと思っている。

可能性を考えつくして、万全の備えをしてなお、想定外のことは起きる。

自分の実力相応の仕事をしていれば、不安はないかもしれないが、コンフォートゾーンから抜け出すことは出来ない。

だから、ぎりぎりまで粘って考え、準備するようにしている。

 

ただ、実務的なDiligenceも閾値を超えると、不安をエネルギーに変えて頑張り続けることが、かえって自分を頑なにしたり、うまく変化に対応するのを難しくしたりする。

計画が立てられないとシナリオが多すぎて混乱する。計画があっても思い通りにいかないと気持ちが滅入る。

目の前に集中しているときこそ、外と接点を増やしたり、無限にやることがあるときにこそ、どっしり構えてみたり、あえてすべてを捕えようとしない姿勢をとるほうが、なすべくして事が進む場合も少なくない。

 

自分自身がこれまで積んできた経験と育んできた感性を信じて、あえて力を抜いてみることが、周到な計画に勝る結果を生みうるのだと感じている。

実務的な課題は実務的に解決可能である。だから、結果的に今の自分が悩む価値のある課題は、実務のみでは解決できない複雑で繊細な人の問題になってくる。

神ならぬ身で全てをコントロールしようとしても、現実は易しくない。

だから、考えて方向性を感じ取りながらも、流れに身を任せながらその場での自分の判断を信じるほうがよい。

自分の計画を信じずに、お互いが歩みつつあるプロセスを信じられるか。相手を信じられるか。相手に向き合う自分を信じられるか。

プロセスそのものに注力して、後は互いの自然体に委ねることができれば、新しい世界が見えるのではないか。そんなことを考えている。

ありのままで通用できるようにこれまで鍛錬してきたはずだ。だから、自他ともにありのままで接する勇気を持ちたい。

ソーシャルベンチャーにおけるフェアネスの議論

ソーシャルベンチャーにおける財務も、基本的には普通のスタートアップとは変わらない。

出資者である株主がいて、事業を経営するマネジメントがいて、日々のオペレーションを回すチームがいて、サービスを受けるお客様(ソーシャルベンチャーであれば往々にして受益者)がいる。

全員が同じ志やミッションに共感している一方で、コーポレートガバナンスの観点からは各々微妙に異なる立ち位置にあり、利害関係をはらんでいる。

そうした事業のファイナンシングをするには、こうした利害関係や役割分担を細かく見極めながら、バランスをとる必要がある。

 

投資家とベンチャー間におけるフェアネス

ファイナンシングにまつわるテクニカルな論点の数々も、煎じ詰めるとプライシング(値決め)の問題に帰着する。

投資家から見れば、相対的な事業のリスクをプライシングした結果が、リターンであり、資金のコスト(Debtなら金利、Equityなら期待利回り)になる。

ベンチャーから見れば、事業の必要資金と成長角度、上振れ・下振れの可能性をプライシングした結果が、ファイナンシングの期間、規模、コストを決めていく。

特定のイベントやトリガーを規定する細かな条項でさえも、結局は個別のリスクをプライシングしているに過ぎない。

理論的な説明は様々な手法ですることができても、最終的には関係者双方の納得感でプライシングは決まる。

色々な投資家に話を持ち込むことを、”Go to the (Capital) Market”と呼ぶのも、市場の声を聞くことが、理論上ありうる範囲内で、より具体的な値段の納得感を肌で感じることにつながるからだろう。

特異なシナジーがある場合やお互いに違うものを求めている場合を除けば、2者間で行われる値決めにおいて、一方の勝ちはもう一方の負けとなる。

従って、投資家とベンチャーの値決めにおける「フェアネス」は、お互いが感情として前向きな場合のみならず、投資家か起業家どちらかが力関係で圧倒していて、もう一方が条件を丸呑みする場合でも、それ以外に道がないと両者が納得(半ばあきらめていたとしても)していれば成立する。

結局のところ、フェアネスの基準は、市場という抽象的な存在に委ねられていて、事業と投資家の2者間を超えた概念に収束する。

Win-Winこそがフェアである、お互いにポジティブであることがフェアである、という社会通念とは若干異なるが、”Fair Market Price”という言葉の通りのフェアネスは、刃物のような鋭さがある。

 

ベンチャー経営に内包されるフェアネスの多重性

CFOの役割は、事業と投資家の間に立って、資本市場に事業をピッチし、投資家との間にフェアネスを確立することだ。

無数の交渉は、事業と投資家の利害の境界線を決め、プライシングという意志決定のプロセスを推し進めるためのものだ。

一方で、事業は様々なステークホルダーによって成り立っていて、ベンチャーにおいてはさらに強烈なプレッシャーが各所からかかる。

投資家に相対する時によりどころとすべき「事業の総意」というものは、実は想像上の概念にすぎない。

「事業の総意」は実態としては、以下のような集団単位で抽象化できる(本当は各集団を構成する個人の意思があるのだが、そんなこと言っているときりがないので、まとめて考える)。

基本的にはコーポレート・ガバナンスの観点で見ていくべきであるが、ソーシャルベンチャーは社会的な意義を掲げる以上、一般的なビジネス以上にステークホルダーを広くとらえたうえで、繊細なアラインメント調整とコミュニケーションが求められる。

  • 株主:教科書的には、事業価値の最大化であり、結果的には、リターンの最大化。ただし、価値やリターンには、経済的なもののみならず、社会的・環境的なリターンも含まれる。インパクト投資業界のような黎明期のアセットクラスであれば、Investment Thesisとの整合性や事業計画が描くリスクテイクと必要なファイナンスの納得感。
  • 創業者・経営陣:ゼロから立上げて踏ん張ってきた創業者たちや、非線形的な成長を達成するために尽力する経営陣のモチベーションや実現しようとしているビジョンとのアラインメント。現実問題として、アーリーステージで彼らにジョブ・マーケット水準の給料は払えないので、エクイティ・インセンティブを含めた彼らの人生にとってのリスク・リターンの整合性。身を削って働く姿は美しいが、最も難しい課題に最も優秀なメンバーをそろえて立ち向かうほうが、手弁当で消耗戦をするよりも成功の可能性が高い。そもそも社会課題は短期決戦ではなく、あきらめずに事業存続できるかが一番大きなドライバーになるので、チームを率いる経営陣のサステナビリティを担保することはとても大切。本筋からは外れるものの、シリーズA、シリーズB、といった資金調達ラウンドの進捗や調達金額が、事業の規模や成熟度の代替指標となるベンチャー業界の慣例上、経営陣にとってのマイルストーンとしてのファイナンシングの意味も忘れてはいけない。
  • チーム全般:仕事に集中できるためのリソース確保。ストレッチされたゴールを達成するための投資(テック、人材、などなど)ができ、安定して成長にコミットできる環境づくり(待遇、オフィス、などなど)。また、最先端の挑戦をするなかで生まれて来た、新しい事業の可能性やリーダーシップを発揮する人材をサポートし、事業全体の可能性を最大化するための柔軟なリスクテイク。ベンチャーに集まる人たちが熱狂する事業成長や成功体験、インパクトなど醍醐味ともいえる非経済的価値の共有。ベンチャーを動かすのは資金でも、アイデアでも、テクノロジーでもなく、人である。社会的な意義を掲げるベンチャーは、集まるメンバーの思いのよりしろであり、凝縮された器(Vehicle)のようなものだ。であれば、彼らへの誠実さを欠くことは出来ない。
  • お客様:日々変化し拡大するベンチャーを早くから信じてくれた人々への継続的なサービスの提供。当初の約束へのコミットと変更がある場合の適切なコミュニケーション。顧客価値へのコミット、いうなれば質の改善とスケールの拡大。また、広義ではあるものの、応援してリスクを取ってくれた初期顧客の方々への事業成長を通じた恩返しという側面もある。
  • 社会課題・インパクトに関わるステークホルダー:ソーシャルベンチャーは、株主や社員、顧客といった通常のステークホルダーを超えて、社会全体の課題と関係者にインパクトを与えるのが使命である。だから、一事業の存続や成功、失敗は、事業そのものに留まらないインパクトを持つ。不可能を可能にするのもベンチャーのマジックなら、壁の高さの象徴となるのもベンチャーの抱えるリスクである。業界を変える、社会を変えると宣言して挑むからには、業界や社会にも一定の責任を負うことになる。失敗するかもしれないけれど、意味があると思われるからソーシャルベンチャーは成立している。だから、当たっても外れても"Nice Try!"と言われるようでありたい。たとえ失敗したとしても、業界に知見が生まれて違うやり方で試す人が出てきたり、優秀な人が失敗の経験を活かして違う場で活躍したり、残された事業の一部が社会の役に立ったりするならば、長い目で見たポジティブなインパクトとなるところが、社会課題に挑むベンチャーの面白いところかもしれない。

 

処事光明を支えるもの

ソーシャルベンチャーはベンチャーであり、社会的プロジェクトでもある。

「二つの帽子をかぶってどうやって正しい判断をするのか?」という問いを一刀両断できる魔法の方程式は存在しない。

杓子定規な会社法とガバナンスだけでは、ソーシャルベンチャーに求められる社会的役割を全うすることは出来ず、浪花節だけでも組織は規律を失ってしまう。

力強いメッセージ、マーケットにとって公正なプライシング、さらにはステークホルダーとの一貫性、あらゆるダイナミクスが働く中で、間に立つ仲裁者に求められるのは何なのだろうか?

 

事業とそこに関わる人々に誠実であり続けたいと願う気持ちを、日々の準備に向ける必要がある。

何が善なのかを自らに厳しく問い、真善美の基準を磨かねばならない。

善意を正しく定義しえても、善意が善行を生むとは限らない。

善意を正しくRepresentできるかは、当人の実務能力とレパートリーの幅と深さに左右される。

専門領域での修養を怠らず、事例をどん欲に吸収し、あらゆるところから学び取ろうとする姿勢が求められる。

そして、毎日の仕事でそうした学びをぶつけ、常に仮説検証していく。

大きなアイデアも、分解すればいくつかのピースになる。そうしたピースを研究して、試してみて、本番に備える。

実務に強くなることが、Getting things doneとGetting things done rightの違いを決める。

「意余りて技足らず」という状況を避けるために、日々の研鑽があり研究がある。 

 

とはいえ、最終的には、現場での自分の仕事の一挙手一投足で答えを出すしかないように思う。

法則性や経験、知識、資格、実績、いかなる「武器」も結果を担保しない。

武器庫を充実させることは、勝率を高め、取りうる戦略の幅を広げてくれる。

だが、武器はあくまでも過去のものである。最終的な結果を左右するのは、武器を手に課題に向き合う当人のその場の判断であり、行動でしかない。

真剣勝負であることは、どんなに経験を積んでも、自信を持っていても、変わらないのではないだろうか。

 

頭の整理がてら書いてみたので、異論反論感想なんでも大歓迎です!

241週目:ロンドン出張

先週末からロンドンに出張していた。

前回ヨーロッパに来たのはコロナで国境が封鎖される直前だったのを思うと、空港でも一切コロナ関係のチェックがなく、街中に出れば誰もマスクをしていないロンドンは、かえって異様な印象だった。

投資家面談に加えて今回はカーボンクレジット関係のミーティングが入っていたのだけれど、気候変動周りの熱気を肌で感じるよい機会になった。

Komazaの事業モデルは、実物資産である林地への投資がメインの林業からもテックだけでプレーするアフリカベンチャーからも「異端」認識されて、前回欧州にいた時は説明に苦慮していたのが、嘘のよう。

カーボンクレジットの中で最もクオリティが高いと呼ばれる、Removalで、かつNature-based Solutionと呼ばれる森林開発・回復は、正に王道中の王道といえる。

こちらから熱弁を振るわずして、相手から売り込まれる経験を初めてして、時代が変わったのを実感した。

この機を捉えて何ができるのか、考えねばいけないとの思いを新たにした。

 

ぎっちりスケジュールを詰めていたので、観光はほとんどできなかったけれど、駆け足で見たNational Gallaryと早起きしてジョギングしたQueens Walkは、とてもよかった。

帰国間際には色々なハプニングでフライトを逃して空港に泊まる羽目になる。

いっぱいいっぱいになっていた頭の整理にしっかり使って、来週からも戦う準備を整えた。

夏までにやることが山ほどある。

 

235-240週目

4月は全社がかりの大きなイベントの企画をしたり、事業戦略周りの仕事をしたりしている間に、飛び去って行った。

ベンチャーではジェネラリスト的な仕事を求められることが多い。

自分にとってはファイナンスは専門領域というよりは物の見方であり、考え方と言ったほうが正しく、ファイナンスをよりどころとしつつも、実務上必要な知識を付け加えることで、戦略だったり、オペレーションだったり、人事だったり、様々な領域に思考を飛ばすことができるようになってきた気がする(ベンチャーにいる限り、学ぶべきことは無限にある。。。)。

フロンティア領域で案件を指揮して試行錯誤するなかで専門性が高まると同時に、誰もやったことがないからこそ降りかかる予測不能な数多な障害を乗り越えるジェネラリスト的なスキルセットが求められる。

ベンチャーの醍醐味だと思う。

 

通常のプロジェクトに追加する形で、3本のまとまった構想・企画を通し、一つの大きなイベントを実行した。

チームがぐんぐんリーダーシップを発揮していくなかで、「自分にしかできない仕事」はどんどん減っていく。

それでも、自分にしかできない価値は何かを問い続けて、面白い仕事ができたのではないかと思う。

チームも成熟してくる中で、「で、僕はなにやったらいいの?」と恥ずかしげもなく聞いて、役割分担できたのもよかった。

ロジ調整のような細かい作業も久しぶりにしたが、こういう作業こそ、事業の全体観と会社内でのネットワーク、経験に基づく創意工夫が思いがけない成果を生んだりした。

苦しい思いをした一か月だったが、最終的に何とか形になったと信じている。