絶望から始めよう
現代は閉塞感の時代だといわれる。
世界では、環境問題が人類の反映にタイムリミットを突きつけ、国際紛争の火種は各地で煙を立てている。これまで人類の発展の象徴であった経済も、こうした問題の前になすすべがない。
環境、食糧、安全。
文明が最高潮に達し、世界中に急拡大しつつある今日、人間の基本的な生存の基礎をなす「当たり前」が当たり前に手に入る世界はすでに幻想になりつつある。
我々は今、世界の未来に絶望している。
日本では20年以上にわたる経済の低迷、急速な高齢化と社会の空洞化、政治の混乱、安全保障の崩壊が人々の心の平和を蝕む。
一人の大学生からみる日本は、親世代の語る日本とは対照的に、多くの複雑な問題に絡めとられた絶望の国だ。
仕事がない、仕事があってもやりがいがない、将来が不安だ。
そんな絶望にこの国は満ちている。
そんな今、私は問いたい。
ひとが「絶望」するのは、果たして本当に問題が解決不可能だからだろうか?
こう自分に問うたとき、自分は「絶望」という思い込みの中で絶望しているのであって、希望を追い求めた結果失望しているのではないことに気がついた。
つまり、問題の大きさや複雑さを感じ取った私は、本能的に「どうせ自分には何にもできないよ」と問題を突き放していただけにすぎない。
問題から「逃げている」という代わりに、「絶望している」といっているだけだ。
ひょっとしたら、正面から向き合えば解決に貢献できたかもしれない問題を前にして、私は目をつぶってしまっていた。
それに気付いた今、私は問いたい。あなたは本当に「絶望」しているのかと。
無力感や絶望感、あるいは閉塞感を脇において世界を見てみよう。
想像力に恵まれた我々は、ふくれあがる巨大で複雑な問題のイメージに圧倒されるあまり、それが何なのかを考えたことがないのではないだろうか。
そして、それを構成する一つ一つの問題に、実は自分たちが直接関与していることに気付いていないのではないか。
ひょっとしたら自分たちひとりひとりの行動で本当に世界を変えられるかもしれないことに、我々は気付いていないのではないか。
人々には毎日の生活があり営みがある。
眼前に積まれた仕事に一生懸命になっていると、選挙せよ社会貢献にせよ、勉強にせよ手が回らないのがほとんどの人々にとっての現実である。
それどころか、目の前にある仕事や生活でさえ、日々解決できない問題だらけであることもしばしばだ。
社会にあふれる数々の問題の前で、個人は事実として無力な存在であり、世界を変えるなんておおげさなのかもしれない。
だが私はここで問いたい。
では、一体誰が社会を作るのだろうか?
人類の歴史は、ただ翻弄されるだけの歴史ではなかったはずだ。
偶然や運に助けられて、何度となく大きな変化を乗り越えた先人の出発点もまた、(それが必ずしも同時代人から評価されないとしても)世界は変えられるという理由なき確信であったのではないか。
だから、僕は、未来に責任を負うひとりの学生として、こうした「暇人」にしか出来ない作業をやりたい。
今まで当たり前に受け止めてきた「現実」を一度わきにおいて、もう一度考え直して自分なりの言葉にしていきたいと思う。
まずは、閉塞感をわきにおいてみる。
何かに絶望したら、何に絶望しているのかをもう一度じっくり見つめてみよう。
ひょっとしたら、その絶望は解決できるかもしれない。
絶望について考えてみる。まずはそこから始めよう。