社会課題へ挑戦するというストーリー
大学時代にLearning for Allという学習支援を行うNPOで教師をしていた時からの付き合いで、教師教育者としても同世代のリーダーとしても尊敬する友人の留学報告会があった。
その時、アメリカの大学のNPO熱について非常に興味深い議論があり、考えの整理も兼ねてメモしておきたいと思う。
議論というのは、米国のあるNPOの参加者数がリーマンショック直後に急増しており、これは本来であれば金融業界などに行く予定であったトップ学生がその後のキャリアアップを視野に入れつつ金融を避けたためではないかというもの。
ここでは別にリーマン後にNPOに行った彼らを悪者としているのではなく、より大きな問題提起として、キャリアとしてNPOに行くことが果たしてSocial Justiceなのか、あるいは立身出世とSocial Justiceはかくも容易に両立してしまうものなのかを問ういている。
実際、Peace Corp, TFAなどのNPOや大学後の途上国支援をサポートするフェローシップなどは往々にしてエリートの登竜門とされ、そこの卒業生は名だたる一流企業や大学院への切符を手にすることがしばしばある。
ソーシャル領域への関心がようやく高まりつつ日本から見れば、それだけ立派なキャリアとしてソーシャル事業体が見做されていること自体がポジティブな驚きである一方、果たしてキャリアのためにごく限られた期間「社会課題に挑む」若者たちが、本当に社会課題の解決に貢献しているのかという問いは見逃されてはならないだろう。
ストーリーで人を説得するのは、アメリカ文化の重要なピースだ。
オバマが人種差別を語る、ヒラリーが女性のエンパワーメントを語る、トランプが事業化としての立身伝を語る、「体験した」「実践した」ということを重視するアメリカ社会において、社会課題に関わる体験は非常にパワフルなコミュニケーションツールになりうる(大手メーカーがブランド戦略として使う環境性・社会性アピール用ストーリーの数々にもこの傾向は明らか)。
才能ひしめく環境では、こうした説得のための戦術を駆使してやっと、抜きん出ることができる。
ただ、そうしたストーリーを戦術として使う中で、いつの間にか自分の目的と携わる事業の矛盾に鈍感になってしまうことは、何よりも恐ろしいことだと思う。
大学時代の開発経済学や政治経済学の授業で、国際機関による独りよがりの「後進国」支援がもたらす弊害について何度となくケースを読まされたが、当時は「どうしてこれだけ社会のためにと言っている人々がこうも自分の事業の結果に無頓着なのか」と首を傾げていた。
だがこの話も今回のテーマに鑑みれば、援助機関の人々も同じような立場に置かれて目的が倒錯してしまったのかもしれない。
そう考えると自分はどうなのか。ストーリーのためにやることと本来的な課題解決はマッチしているだろうか?
現場に立って、時間がかかろうとも執念を持って取り組む決意はあるのだろうか?