ケニアスタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

ベンチャーがもたらす「成長」とその限界

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自分の役割は何なのかを、自分で考え、定義し、提案し、なりきることができるのは、ベンチャーにいる大切なやりがいの一つだ。

「どんな仕事をしているんですか?」と聞かれて、毎月・毎四半期・毎年違う答えをしているから、5年近く今の仕事を続けられているのだと思う。

自分の頭で考えることは自由でもあり、限界でもあり、いかに早く自分の差分を理解して、対応できるか、という一種のゲーム的な面白さがあった。

仕事の上で壁にぶつかることもあれば、身近な人からフィードバックをもらう(というか強烈にプッシュして批判をもらう)こともあり、伝記や事例を貪欲に吸収しながらパターン的に自分のおかれた立場を認知しようともする。

プロフェッショナルファームに籍を置いたことのない自分は、アナリストワークの時代から自分なりに基準を作って「成長」を目指して、その後は仕事が求める役割を、自分なりにJob Descriptionに書き起こしては、ギャップを解消しようとしてきた。

グローバルスタンダードを勉強しながらも、最終的には自分の審美眼を頼りに「偉大な職業人」を目指してきた気がする。

 

ベンチャーの仕事は、不可能であったり、世界初であったり、途方もなく遠大な意図の年単位の案件化であったり、チャレンジとして不足はない。

難しい局面にぶつかると、それを題材として、「この人ならばうまく解決できたであろう」という人を探し、事例をあたる。

そこから、理不尽や外的な要因も含めて、すべてを自責すると、面白いように自分の能力の不足が目につく。

不足を克服する過程で、課題は勝手に解けていく。

自己肯定感で支えられるぎりぎりまで、厳しく自責することで、自分の限界を鮮明に描き、理解し、乗り越えることができる。

野心的で長期的なゴールを掲げるベンチャー以上に、失敗が身近で、困難と親しむ仕事はない。

そういう場に自らを置けるかは、自己理解の深さ、戦略的なポジショニングよりも、運とめぐり合わせによるところが多いのだろう。

ベンチャーの仕事は好奇心をよく満たしてくれている。

 

一方で、ベンチャーで直面する困難を砥石にして自分を鍛えていくアプローチにも限界はある。

難しい挑戦をしていれば、困難な課題はいつまでも現れ続ける。

修行僧が滝に打たれるように、困難を題材にして自らを問う内省的なプロセスは、心を無にして課題に向き合う機会ではあると同時に、他者や外的な存在から自らを切り離す行為でもある。

自責を極めた先に、他者と外界は存在しなくなる。

自らと向き合う手段であった自責思考は、外的な世界から逃避し、自分の殻に閉じこもる口実になってしまう。

ともすれば、自責は、ありのままの自己を拒絶し、存在するはずの他者を捨象する。

受け身の姿勢で困難を捌き続ける行為は、ある水準を超えると、自己完結的な循環論法に陥って、人を盲目にする。

現実には存在するはずの自己と他者から、他者を排除することで、現実から逃避するようになる。

禅の文脈で繰り返し語られる「悟りを開くために厳しい修行をした名僧たちが、過酷な修行の末に悟るのは、悟りを開くために厳しい修行は必要ないということだ」という説話と近いかもしれない。

禅の世界では、自他の境界を無たらしめることが目的であり、職業人の世界では自他の境界を見定めてバランスよく両者に働きかけることが求められる。

本当に困難なのは、自分だけでも他者だけでもなく、両者の間に正しく境界線を見出すことだ。

困難は砥石にはなってくれるが、何のために自らを研ぎ澄ますのか、何を美とするのか、どこに境界線を引くべきなのかを教えてくれはしない。

 

個人、チーム、事業、いずれのレベルにおいても、閉じた世界でExcellenceを追求するだけでは、優れた成果は生まれない。

高い目標を追いかけるだけでは、既存の枠組みの延長上に自己を規定している点で、模倣の域を出ない。

最初は誰もがベンチャーの課題解決に合わせて自分を適応させ、Make Oneself Usefulとなることが求められる。

しかし最終的には、困難に適応するために自分を作り上げるのではなく、あるべき姿を自分で定義しなければならない。

「より良い」ではなく、異なる「良さ」のなかから、自分なりに「良さ」を選択して、守り通すために努力をしなければならない。

困難を捌くために戦うのか、理想を貫くために戦うのかでは、同じような挑戦であっても長い目で見た意味合いは似て非なるものだ。

目標ではなく、理想を定義しなければ、職業人としてのスタート地点には立てないのではないか。