気候変動スタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀をしていましたが、気候変動スタートアップを創業するためスタンフォードにいます。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

202週目:終戦記念日に寄せて

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8月15日にたまたま重なったこともあり、今日は終戦記念日について思うことを書いてみる。

日本で生まれ育ち、大学でアメリカ、仕事でアフリカにいる自分にとって、終戦記念日は「日本が負けた日」ではもはやない。

日本に住んでいたころは、原爆や終戦間際のドキュメンタリーを観ながら、戦闘や空襲で命を落とした日本人に思いを寄せていたが、今となっては、戦勝国・敗戦国を問わず、祖国のために戦って命を落とした人々や、戦闘の巻き添えになって亡くなった市民全員に対して、手を合わせたくなる。

留学していた時に、第二次世界大戦の授業があり、少人数でディスカッションをしたことがある。

クラスには、アメリカ人はもちろん、ドイツ、イタリア、インド、中国など、あらゆる立場の生徒がいて、つたない英語でどうやって発言しようか、前日はなかなか眠れなかった。

安直なナショナリズムも、自己批判も、ともに自らと祖国を貶める、難しい状況で、改めて全員一致で合意したのは、「戦争は、あらゆる人を被害者にし、あらゆる人を加害者にする。家族や友人、愛する人を失った悲しみの裏側には、敵を殺そうとする強い憎悪がある」という戦争の二面性だった。

だから自国だけを考えた愛国心は、一面的で薄っぺらい。

市民社会に生きる自分たちには、薄っぺらい愛国心や自分が経験していない過去への憧憬を遠ざけ、いかにして誰もが被害者にも加害者にもなる戦争という不毛な営為を防ぐことができるか、考え行動する義務がある。

戦争から80年近くが経って、直接の戦争経験者もほとんどいなくなった今日、求められるのは単なる追悼ではなく、社会の参加者としての市民一人ひとりの自省ではないだろうか。

 

そういう意味では、今回のオリンピックの一連の報道は、胸が締め付けられる思いがする。

高校生時代に、第二次世界大戦前夜の日本の言論弾圧について自主研究をしていたことがあり、メディアが当たり前のように権力に屈したり、アカデミアが権力の介入を許すどころか積極的に同化したり、知識人が暴力を恐れて筆を引っ込めたり、軍部の横暴を元老含む政治家が止めることができなかったり、国民が安直な扇動に乗っかったり、という状況を「怯懦だ」とレポートでこき下ろした記憶がある。

さすがに全く同じ状況ではないにせよ、オリンピックやコロナ禍に度々あらわれる「失敗の本質」のパターンや、社会に蔓延する無力感を見ると、あながち今の自分たちも「怯懦」なのではないか、と考えてしまう。

自分の果たすべき役割を、世界の目線で考えてやってきたが、一人の日本人として日本で何をすべきか、というのはこれからも向きあっていきたいテーマだ。