藤沢武夫「松明は自分の手で」
「企業の中には、前を行くもののの灯りを頼りに、ついてゆく行き方をする会社もある。しかし、たとえ小さい松明であろうと、ホンダは自分でつくった松明を自分の手で掲げて、前の人たちには関係なく好きな道を歩んでいく企業とする」という言葉には、ベンチャー経営者の闘魂が詰まっている。
あらゆる企業が雨後の筍のようにぐんぐん伸びていく世界を見たことのない自分の世代は、どうしても大企業を作り上げた成功者としてこうした起業家のことを思ってしまう。
ただ、本当は何万、何十万の同じような事業が競い合いながら、だれもが自分こそ大事業になるのだと信じて仕事をしていたのだという、ごく当たり前のことを忘れがちだ。
小学校の頃、日本の挑戦者たちを描いたNHKの番組「プロジェクトX」に夢中になった。
ひときわ輝いてみえたのが、ホンダだった。数ある日本企業の中で、ひとりの天才エンジニアが無謀とも思える挑戦を重ねて成長していく姿もさることながら、戦後の代表企業のほとんどが、天才創業者の後継者が見つからないまま90年代以降迷走した中で、早い段階で組織に着目し、後継者たちをチームとして育て上げ、見事に引退を飾った先見の明に、ただただ尊敬の念を抱いた。
先日Twitterで紹介したSchwarzmanの”What It Takes”が20代のベストビジネス書なら、本書「松明は自分の手で」と「経営に終わりはない」は10代のベストビジネス書だった。
ルマン24時間耐久レースでの勝利やF1への電撃参入など、華々しい技術的成功が語られる同社の歴史も、実は優れた経営者によって支えられていた。
技術の本田、経営の藤沢と呼ばれた二人の歩みを理解することなくして、この会社の本当のすごさは測り知れない。
冒頭のインタビューで、ホンダの成功を支えた、本田宗一郎と藤沢武夫のパートナーシップについて藤沢は次の5点を挙げている。
-
藤沢は本田の天才にほれ込んで、全面的に応援した
-
お互いに金に潔白で、経済的成功は業績達成の尺度であって、何事かを達成することを重んじた
-
技術では本田、その他すべては藤沢という完全な信頼・分業関係
-
本田が藤沢の経営的視点に耳を傾け、意見を聞いた
-
藤沢は女房役に徹して表に出なかった
互いに絶大な信頼を寄せ合う二人のやりとりを追うだけでも、素晴らしいドラマになるけれど、単なる施策の巧拙を超えた、意思決定の判断軸が一貫して技術的挑戦と組織としての永続性を指向するホンダの歴史は、学ぶたびに新たな示唆を与えてくれる。
「浜松のエジソン」と呼ばれた天才技術者本田宗一郎を「世界のホンダ」に引き上げたパートナー経営者、藤沢武夫の著作から、印象深かった箇所を抜萃してみたい。
-
経営の経の字はタテ糸
-
布を織るとき、タテ糸は動かずに、ずっと通っている。営の字のほうは、さしずめヨコ糸でしょう。タテ糸がまっすぐ通っていて、始めて横糸は自由自在に動くわけですね。一本の太い筋は通っていて、しかも状況に応じて自在に動ける、これが経営であると思うんですよ。
-
明け方三時、四時まで話し込んじまうなんてこともしばしばでした。この対話から生まれてきたのが、本田技研のタテ糸になったわけですが、このタテ糸を性格づけたのは、本田のヒューマニズムであり、私のロマンチシズムだったといっていいでしょうね。
-
ただ、自分の画いた経を、とにもかくにも退陣するまで守り続けられたことがうれしい。守れないときは会社を辞める覚悟でした。ですから、たとえ外部の人に理解してもらえないような事柄にも、従業員は理解し、協力してくれました。
-
トップが一緒に行動する必要がどこにありますか?年中一緒であるということは、裏返せば、お互いの意思が完全につながっていないことを示すものではありませんか。タテ糸が通っていれば一見お互いにばらばらの行動であってもいいんですよ。
-
近代産業のトップ経営者の動きは、二十世紀後半の音楽みたいなものだと思うんです。グループでくっついていなければなトップでないなどというのは、おかしい。トップは、それぞれの分野において独自の行動を果敢になさねばならないので、それぞれの行動の集積が一つの目標に向かう経営の世界をつくればいいんじゃないですか。創業者の場合、とくにこのことが大切だと思います。
-
仕事の原則
-
私は仕事を片付けるとき、あとでそれが癌にならないよう、多少手荒なことがあっても、将来のことを第一にいつも考えていた。企業には良いことも悪いこともあるので、禍を転じて福と為す、その橋を見つけ出すことが、経営者。
-
企業がスムーズに展開されて障害がなく、これからも同じように阻害さるべき要素を、未然に探求しておくことが、私は、経営だと思っている。
-
私は十分に段どりしないでは、やたらに仕事に手をつけない性です。将来問題となるものを予知できないくらいなら仕事なんぞやるな、というのが建前でね。
-
(海外進出で現地法人を自前で設立した理由について)他人の褌を利用しようなんて思わないで、自分で作る褌なら、本数に制限はないし、思い通りにできる。
-
チームと教育
-
本田も私も無我夢中ですし、遠くの方から命令して仕事をしているのではありませんから、まっ先に飛び出していって、そばにいる者に自分のからだでおしえていっちゃうんですからね。俺ができるんだから、おまえも出来るんだといった調子ですよ。
-
人間なんてものは、叱られるようなこと、教えなければならないことは、みんな同じなんですよ。だから、まとめて、全部の人に教えちまう。それは馬鹿でっかい声で派手にやるに限ります。このやり方は私自身の勉強にもなる。うっかりした叱り方じゃあ、皆に軽蔑されますからね。
-
みんなが急速に伸びているときですから、生半可な組織で固めてしまうのはいやだということで、組織を作らなかった。
-
技術革新と業務改善
-
外注の社長さんや従業員が、過去の経験から「とてもそんなことできません」と答えると本田は「こうじゃあ、どうだね・こうすれば」と一向に退かないで、部品を一緒にひねり回す。そんな姿をよく見かけたものです。一つができると、外注のほうも、自分たちで次の山へと挑んでいく。(略)二番手、三番手のメーカーは、研究努力もなく、企業の危険も賭けずに、確実な部品を入手できるんですからね。
-
「ドイツには向上に伝票がないぞ。うちでも伝票をなくせ」と声をかけた。ここで事務管理委員会を設置しました。たしか委員長は私ということで、委員は職場を離れないのが条件。何人かの課長、係長が委員になりましたが、事務にしろ、現場にしろ、ほとんどが第一線の人でした。そして、この委員会だけの独断で仕事はしないこと、言い換えれば、油の役目はするが、歯車にはならないということを決めました。(略)私の提案に基づいて、現場がアイデアを出し合ってつくられたものですから、それぞれの仕事にぴったりしていて、従業員にスムーズに受け入れられたわけです。借りものじゃない。
-
本田宗一郎という人は、合理主義者なんですね。大勢の人間が集まって仕事をするときも、すべて合理主義で割り切ろうとしました。もちろん、みんなに納得させる理論を真向から振りかざすときは、そうでなくてはならないはずだし、そうであって初めて事業が急上昇できたわけです。けれども、合理主義では割り切れない仕事をやるのが、私の役目だったですね。労働問題もそうですが、こんな事件の時、直感的解決を見出す判断は私のものです。
-
組織の永続性、本田・藤沢なきあとのホンダづくり
-
本田技研の将来の発展は、もう一人の本田宗一郎、もう一人の藤沢武夫、いや、数え切れぬほどの本田や藤沢が生まれてくるかどうかにかかっているといっていいんです。
-
それでは、本田宗一郎、藤沢武夫の特徴は何かといえば、一言でいって、エキスパートであるということでしょう。面倒見のいい管理者タイプでは決してありません。本能と直感で動きます。こういう人間は、世間一般の組織図で固められた集団の中では生きられません。せいぜいできの悪い管理者になって、才能をすり減らしてしまうのが通例でしょう。しかし、エキスパートを生かせぬかぎり、ホンダがユニークな企業として生き続けていくことは望むべくもないのです。
-
専門職制度にしても、十五年の間に飽きてしまったら、なりたたなかったでしょう。この間、従業員の情熱の火を燃え続けさせたところに、経営の仕事があると思うし、また経営者の義務があると思うんです。私の漠然とした夢のような組織のあり方を、永い年月をかけて全社員で討議し合ったこととは、企業の将来の発展と個人の生活との関係を全員が深く理解するのに、大変役に立ったと思います。(略)これができたとき、初代の脇役としての仕事は、全部完了したと思いました。
-
本社の営業業務にいる人を理論的に教育して”経を通じ合う男”にするのが私の役目でした。いろんなことにぶつかるたびごとに、その処理の仕方を見せては教え込んだ。ここで教えたものの数はかなり多くて、営業だけでなく、製作所にも、他の部へも回っています。
-
(研究所の分離独立について)若い時分に読んだ漱石の本の中に、日露戦争で国を挙げて大騒ぎをしていたときに、大学の地下室でガラスを磨いていた学者の話がありました。この話が、私の頭にこびりついて、以来四十余年離れないんです。企業にのぞまれるのは、このガラスを磨いていたような人が心穏やかに落ち着いて仕事ができる環境を作って差し上げることですよ。それでこそ、技術者の層が厚くなって、企業を守る商品を見つけ出してもらえる。
-
ピラミッド型の組織だと課長の数には制限があるが、部下なしの文鎮型組織の研究所なら何百人課長がいてもふしぎはない。新入社員でも技術が優秀なら、必ず主任研究員になれるし、主席研究員になれる。また、人数に制限のあるピラミッド型組織と違って、人間同士の摩擦がない。
-
(役員室制度について)「重役は何もしないんだよ。俺もそれでやっていた。何もない空の中から、どうあるべきかを探すのが重役で、日常業務を片づけるのは部長の仕事だ。所長であり重役であるのは対外的な面子から、交渉の時もまずいということでそうなっているだけで、重要な問題ではない。だから、役員は全部こっちへきて、何もないところから、どうあるべきかをさがすことをやってほしい」といったのです。(略)そうやってみんだで大部屋に入って、毎日ムダ話でもしていてほしいといっているうちに、いろんなことが出てきます。それは重役の共通の話題です。それまでは、部の中における話題だったものが、つまらないことでも重役として話題に出ると、そこには共通の広場ができ、それがどんどん分厚くなっていきます。たとえば、現場の人が本社の経理や営業のことを知り、営業の人が現場や研究のことを知るので、共通の広場のレベルがどんどん高くなっていくわけです。
-
創業者の役割
-
企業を興すことのできる人は、異常に近い努力をする。その魅力に、多くの従業員は”それ行け、やれ行け”と知恵、知能、努力でついて行く。”無から有を生じないはず”を生み出し、新しい企業が誕生する。
-
私は現在、企業に利益があるとかないとかよりも、その仕組みができたこと、そして全体のレベルを上げるべきだという社長の考え方がその中に織り込まれてあること、これが何よりも大切だと考えています。本田も私も、企業を興すときはおもしろがってやってしまうほうですが、もしもこれをつぶすような芽をつくったら、企業を興す功どころか、かえって社会に害悪を残すことになります。やらなければ迷惑の掛かる人はいないが、やる以上、迷惑が掛からないようにするにはどうあるべきかというところまで考えて組織を作らない限り、創設者の意味はない、というのがいまの私たちの考え方であったわけです。
-
われわれが知らなければならないことは、われわれのおかれている位置が、われわれの進んでいく方向が、正しいか正しくないか、ということを知るのが、一番大事である。だから、いま現在、繁栄しているかどうかということは、それは二番目になってしかるべきである。(略)みんなが将来ほしいであろうというものを、じっくりと考えて、それに向かって進んでいくことが必要である。
-
危機がひととおり解決したとき、私は自分に何か限界を感じたので、本社と離れた銀座の越後屋の二階の二十坪くらいな事務所を借りた。(略)四囲が真っ黒な壁でした。当時、非常に評判が悪くて、実は困ったのでしたが、大企業への足掛かりを生み出そうと、考えて、一人で暮らした。(略)私の毎日の日課は、この室で、膨大なチャーチルの「第二次世界大戦回顧録」と向かうことだった。大事なところは何回も繰り返し読んだ。せっぱ詰まったとき、どうしてゆとりある考えになれるのでだろうか。
-
中小企業の良さは、小回りが利くことにある。人材が見つけやすい。が逆に、人材の入社が少ない。大企業の欠点は、その巨大な組織が人材の登場を困難にしているように思われた。そこで、目的を明瞭に、全従業員に告げて、現場の第一線の人から第二、第三の本田宗一郎がその能力を発揮できるよう、登場できるような組織を作ってもらうことを提案した。これを私の責務としようと決心した。種々に角度を変え、次から次へと提案し続けた。