ノーベル賞受賞者の発表について
ノーベル医学・生理学賞を受賞した東京工業大学栄誉教授の大隅良典の会見が話題になっていたようなので、印象的だったコメントを引用してみる。
ちなみに、個人的にはブラウン大学の Michael Kosterlitz教授が物理学賞を受賞しているのが胸アツで、同じく物理学賞を受賞しているLeon Cooper教授のクラスを思い出した(ブラウンでは、こうした最高の教授が、1年目の入門編の授業を教えていた)。
Brown’s J. Michael Kosterlitz wins Nobel Prize in Physics | News from Brown
野心のタイムライン
今回の受賞が特に注目された理由として、受賞理由となったオートファジーが応用ではなく基礎研究分野であるということが挙げられる。
このことを聞いてから、「目的が応用研究ほど明確でない中で、どうやって方向性をもって20年以上も信じて研究できたのだろうか?」と考えていた。
その答えは、目前のキャリアではなく、5年10年での問題設定らしい。
若い人が少しロングタームでですね、2年間で何するというのではなく、まずは大きな問題設定ができて、こんなことにチャレンジしたいということが5年10年ぐらい先まで若者が考えて。もちろん日々は具体的なことというのに左右されますけど。こういう問題を解きたいんだと若い人たちが本当に思えて、そういうことをサポートするような社会の雰囲気というのがとっても大事なんだと思っています。
IT社会の今日、世界中の情報が専門家やプレーヤー間で同時にやりとりされる。ビジネスだって、世界中のすぐれたアイデアがネットの記事などであっという間に陳腐化する。それだけに、原点を持つことが大切で、それは「現象」なのだとか。
ただ今、生命科学はたいへんな進歩をしていて。例えばオートファジーの論文はこの頃は毎年5,000ぐらいの公表があるという時代になっています。そういう情報のなかで、それを全部自分で消化するなどということは到底不可能だと私は思っています。なので、実際私は、若い人に「自分がなにに興味があるのか?」ってことを本当によく考えてみてほしいということを思います。それは、論文のなかの1つの遺伝子に注目するということでは、大きな問題はなかなか解けないんじゃないかと思っていて。私は自分で現象を見続けたところからスタートしていて。いつもそこに帰れる。私に最初に見た現象は、私のラボでは今でもみんなが顕微鏡で見ている現象で。「いったいなにが起こってるんだろう?」ということに帰れる現象を自分で持っていたというのが、どんなことがあっても続けられた1つのモチベーションだったのかなと思っています。
そして、それを裏付けるのは、科学自体にゴールはなく、次から次へ湧き出る疑問に答え続ける終わりのない世界だというのは、科学だけに限らないのだと思う。
実際に研究をスタートしてからは、これがノーベル賞につながる研究だなどということを思ったことはほとんどありません。これはもう正直な気持ちとして、そういうことが私の励みになったということもなかったような気がいたします。 科学というかサイエンスというのは実はゴールがなくて。なにかがわかったら必ず次に新しい疑問が湧いてくるということで。
サイエンスの役割
とはいえ、ビジネスベースで目的を明確化するプレッシャーは根強いらしく、そうした圧力の中での研究よりも、「社会の余裕」の大切さも強調されてきた。
上述の興味を模索する研究を応援する社会の役割とサイエンスの役割。
科学はいま役に立つことがとっても問われていますが、役に立つというのは非情なもので。役に立つというのが、来年、薬になったということだと、13年後に薬になったというとらえ方されると、本当にベーシックなサイエンスは死んでしまうと思うので。人間の長い歴史の中で、私たちがどんなことを理解していったらいいかっていうふうに思うかということをとても大事にする社会。
これは実業についてもレベルの違いはあれ、通じるのではないか。
「これをやったら必ずこういういい成果につながります」ということを、サイエンスでいうのはとっても難しいことだと思います。なので、もちろんすべての人が成功できるわけではないんだけど、そういうことにチャレンジするというのが科学的な精神だろうと私は思っているので。
日本の研究システムが抱える課題
問題はお金だけではなく、チーム。これは日本企業のイノベーション課題と同じ気がする。そもそもリソースがなかったり、あっても共通のゴールに向けたアラインメントができていなかったり。
日本のシステムは個人研究になっていて、なかなかみんなでシェアしながら共有しながらというシステムができませんね。ケンブリッジにに関しても、私びっくりしたのが、ケンブリッジに行って、ファシリティみたいなのをめちゃくちゃ作って、若い人は何でもそこで使えるというような、そういうことにお金がかけられている。