「シン・ゴジラ」考
巷で物議を醸しているシン・ゴジラを観てきたので雑感をば。
①3.11の再演と日本社会の風刺・批判
今回の作品は疑いもなく、3.11の再演である。
海からやってくる人知を超えた自然災害と、それに対し機能不全となる日本社会のありようがこれでもかと言うほどに描かれている。
ゴジラが上陸してくるときの波で街が一掃されるイメージも、(たまたま原作もそういう設定であったとはいえ)原子力をエネルギー源とし放射能汚染を東京に撒き散らすゴジラも、東日本大震災のときに世界が目の当たりにみた光景と近似している。
一方で、縦割りの組織、無責任な意思決定、形式主義の行政・政治、そうした「人災」としての側面は、政治家と官僚とのコミカルなやりとり(リアルすぎて「踊る大走査線」のように映画館内で笑いは起こっていなかったが)で繰り返し提示される。
普通のアクション映画のように、官僚がいきなり気概に燃えだしたり、政治家がいきなり英断したり、自衛隊がいきなり強大な兵器で犠牲もなく決着をつけたりといった希望的な描写は本作では登場しない。
アクションなりSFなり、特撮なりのファンタジー性に挑むようにして、淡々と物語が同じ温度感で進行し、そして幕を閉じる。
自分の周りの官庁や大企業勤務の友人たちが、こぞって「絶望的」というレビューをしていたのは、こうした淡々と「間違った」社会が進んで行く(そしてそこで一般の人々はことごとく無力である)映画の内容があまりに現実に似すぎていたからではないかと感じた。
この辺りの機微は、国会事故調の報告書や、立法府が設定した初の独立調査機関を指揮された黒川清先生の近著「規制の虜」にも詳しい。というか、そのままにしか見えなかった。
②復興ストーリーの不在
みんなが間違っていると感じていても、だれも流れを変えることができない無力感は、ゴジラのみならず今日の日本社会を表現する共通のテーマだ。
では、「シン・ゴジラ」はこの無力感をどう扱っていたのだろうか?
数年前にサントリー学芸賞を受賞した「復興文化論」は無力に満ちた災禍から復興する過程こそが日本文化の変化・成長を促す刺激になってきたことを示唆している。
シン・ゴジラにせよ、東日本大震災にせよ、災いは一般の人々に広く無力を突きつけ、犠牲を強い、国土を荒廃させる。
日本人が歴史的に強さを発揮するのは、そこから犠牲を飲み込んで、復興に勤しむ人々が織りなす新しい時代解釈(社会的または文化的)であるというのが著者の福嶋氏の説だが、今回のゴジラはどうであろう?
まだ1回しか見ていないものの、映画はゴジラが冷却停止したところで終わっており、そこから先の「歴史づくり」は明示されてはいない。
震災から5年が経ってなお、震災前と変わらない社会構造のもとに暮らす我々と同様に、シン・ゴジラの世界観もまた新しい時代の到来を見てはいない。
むしろ、強烈に「今の日本」を観客に突きつける。
③現場最強説
シン・ゴジラの中で唯一というほど「救いの可能性」として登場していたのは、日本の「現場力」だ。
意思決定が迷走しても、必死になって避難を指揮する現場の警察・消防団・自衛隊の姿。
東京都360万人の疎開というオペレーションに耐える行政の現場力と、そうした中でもコミュニティを築いて助け合う市民の姿は、3.11始めとする災害のたびに我々がテレビで目にする光景を思い起こさせる。
政府上層部の理不尽にめげることなく最善策を考えるべく奔走している作戦チームの姿も、今となっては多くのドラマや成功ストーリーに共通する「(たとえ上はだめでも)現場は正解にたどり着く」というテーマを丁寧になぞっている。
最後の最後で全員が一丸となってやり遂げる力のある現場、そして最後はまるで塵を飛ばすように命を捧げる現場の既視感と言ったら何であろうか。
果たして、こうした「現場最強説」のロマンチズムを単なる「いい話」として受け入れて良いのだろうか?
なぜなら、彼ら現場がなしうるのはより良い事態への対処であり、事態そのものの予防ではないから。
もっと早くに、根本的に課題を解決する努力をリーダーがしていれば、そこまで過酷にならなかったであろう現場の最前線で戦う無数の人々を尊敬をしても、そんな状況を生み出したリーダーの責任は変わらない。
「なんとかなるさ」主義の大臣に対して、第二次世界大戦の時の軍部指導部の例を出して無根拠な楽観主義を若手議員がたしなめるシーンがあった。
国際関係史の有名なジョークに「最強の国家に必要なのは、英国人の政治家、アメリカ人の経済界、ドイツ人の参謀、日本人の兵隊」という言葉があるが、その頃から変わらない日本の社会の課題を風刺したのが今回の作品だったのではないだろうか。