なぜ卒論をかかねばならないのか
「これから一年間の卒業論文は、国際関係への理解を深める過程ではなく、アカデミアのコード(掟)を学びながら、知識の消費者から生産者へと変わる転機になるはずです。」
9月の冒頭に、数百名の国際関係学部から選ばれた10人の卒論学生にむけて、アドバイザーが言った。
この時は、少し大げさだと思っていたのに、10月も中旬にさしかかり、最初の山場である専攻文献の調査をしていて、つくづくこの言葉が身に染みた。
今までのエッセイは、有名な学者の業績から骨子を洗い出し、自分で見つけた事例等を適当に組み合わせながら、良い「読み物」でしかなかったのだと実感している。
まさか、一つのトピックに存在する膨大な論文や学説を洗いざらい見た上で、慎重に自分の議論を理論化し、それを試すのに最適なリサーチ設計をするなんてことを、本当に自分がするなんて思いだにしなかった。
このクラスで、いまの自分は正直落第ギリギリだ。
去年暖めたプロポーザルは、文献研究をし始めると同時に崩れ落ちた。論理上の盲点、曖昧なロジックのひも付け。ペーパーとしては評価されるレベルのものも、やはり厳密を期する論文の中では、ごみくずにもならない。
期日はなんとか守り抜いているが、それでも毎回締め切りの前日に徹夜で図書館に籠って呻吟しながら、仕方なく完成出来ない部分を切り捨ていく。
それが洗練なのか、妥協なのか、今の僕には知る由もないのだ。
学者になるわけでもない僕が、なんで将来の博士候補たちとこんなことをやっているのか、ふしぎでならない。
結局僕は、自分の存在価値を「遺す」ために論文を書いている。
自分という、弱く愚かな存在が、なにがしかの形跡をのこせるのだと信じたい。ただそれだけだと思う。プロジェクトをやれば、組織が残る。組織が残れば、新しい価値はそこから生まれる。出版という行為も同じだ。僕が中高で友人の誰よりも本との対話を生きがいにしたように、紙に印刷された思想や思考が、そこに残り誰かに読まれる可能性をとどめていることが、僕の人生にとっての希望なのだと思う。
そして、これまでの人生を振り返って、自分の核を形作ってきたビジョンを描き、伝える、そして実現することへの情熱を、これからも追求していくためには、きっと今回の最も厳格なアカデミックな執筆経験が役に立つと直感している。
プログラミングのクラスを諦めるか、卒論を諦めるかの瀬戸際に立たされた時、僕は迷いなく卒論を選んだ。それは、僕にとって、新しい可能性を広げる以上に、自分の最も好きなことをどこまで突き詰められるか挑戦したいという衝動が強かったためだ。
去年の夏からの悪夢のような1年がわずかながらに形を変えつつある。
就活も、卒論も、プロジェクトの変革も、少しずつ良くなってきた。
まだまだ道のりは果てしないが、根気強く、図々しく、人生の門扉を推していこうと思う。