夏目漱石からの手紙
「勉強をしますか。何か書きますか。君方は新時代の作家になる積でせう。僕も其積であなた方の將來を見てゐます。どうぞ偉くなつて下さい。然し無暗にあせつては不可ません。たゞ牛のやうに圖々しく進んで行くのが大事です。」
若き日の久米正雄と芥川龍之介に夏目漱石が宛てたこの書簡は、近代日本文学の巨頭たちの交際を浮かび上がらせる貴重な史料とされている。
未完の大作となった「明暗」の執筆中に、晩年の夏目漱石が後進へ与えた教訓は「牛のように」辛抱強く道を拓くことだった。
「無暗にあせつては不可ません」とは一体どういうことなのだろうか?
焦りは僕の原動力であり限界である。
慶應を飛び出してブラウンへ編入したのも焦り、日本でのインターンではなくアショカに飛び込んだのも焦り、そして今考えている夏の予定も目指す進路も、焦りに満ちている。
このままではダメだ、という根拠のない焦りが怠け者の自分を行動へと突き動かす。
大学生としては、それくらいがいいのかもしれない。より多くを体験し、より広く世界を見る。フットワークを軽く、努力を惜しまず。
焦りは、好奇心を行動へとつなげてくれる。それで良い仲間もたくさんできた。
けれど、大学生活を終えようとする今、この思考の限界を急に意識するようになった。
なぜなら、仕事は好奇心や好き嫌いだけではできなくて、些細で面倒くさい毎日の作業で満ちているからだ。
焦りの限界は、焦りに突き動かされた衝動的な行動では、目前の作業をひとつひとつの確実にまとめていくことはできないところにある。
外からは世界を日々変えているように見えるアショカの仕事も、ふたをあければ優れた社会起業家を見つけるためにアンテナを張って何百通もメールを打つ作業だったり、彼らの業績を一つ一つレポートにしていく作業だったり、地味で退屈な作業の上に成り立っている。
もちろん、毎日新たな発見や進展はあるのだ。
でも、この作業のどれ一つをとっても、決して斬新だったり、イノベーティブだったりすることはない。
小さな工程を積み重ねた先に、アショカは世界70カ国に3000人の「社会起業家」の輪を築き上げた。
個人のレベルでも同じことが言える。
若手研究者が深夜まで文献と格闘する、新米料理人が野菜をミリ単位で切る練習をする、新入社員が連日睡眠を削って働く。
下積みは、自ら決めた分野でひとつひとつの作業をマスターしていく練習期間なのではないか。
当たり前のことを当たり前に出来るようになることが、プロフェッショナルの第一歩だということを人は忘れがちだ。
この前提があって初めて、好奇心に従って人間として職業人として幅を広げる意味がある。裏を返せば、いくらプロになると口先で言ったところで、実力が伴わずに意識だけ高い人には、何も生み出せない。
僕は今、この境界線に立っている。
焦りという自らの心の弱さ、衝動的な部分を理性によってコントロールできなければ、ただ口先だけの空しい人生を送ることになる。
自分の才能を信じるのなら、まずは目の前のことに全力で向き合い、ひとつひとつ完成させていかなければならない。漱石が同じ書簡で小説の執筆を「機械的」と呼んでいるように。
漠然と焦り悩む先には何もなく、考え試行錯誤する先にはより良い明日がある。
悔いのない仕事をいくつ積み上げられるか。それがこれからの勝負だ。