追悼:粕谷一希先生
“memento mori” (「死を想え」)という言葉に初めて触れたのは、高校卒業の時に担任の教師から送られた文集の中であった。
まだ二十歳にもならない高校生にとって、死はあまりに縁遠い観念だった。
幸いに自分は両親も、そして祖父母も健在で、自分の生命の有限性を認識するどころか、大切な人をなくす経験さえ身近ではなかったのだ。
あれから4年が過ぎ、僕は20代前半の気楽な学生の身分から社会の責任ある一員としての新しい立場に立つようになる。そして、この数年間で、僕は自分の夢を実現するために留学し、そして前途洋々として将来の計画を練っている。
明るい未来を描くばかりではない。最近は少しずつ人生の喪失を意識するようになってきた。
今日、戦後日本のインテリ界で看過すべからざる影響力を持った粕谷一希氏の通夜に参列するにあたり、感じたこと書き留めたい。
僕は日夜死に恐れおののく弱い存在だ。けれど一方で、人が想像し、創造しうる思想の半永久性を信じている。
今年23になる僕にとって、死は恐ろしいものだ。
どんなにすごいことをやっていても、ある日突然クルマにはねられて志半ばで命がついえてしまったら。自分の限りある命で自分の描く夢がもし実現出来なかったら。そう想うだけで、僕は戦慄し、ある種絶望的な気分になることがある。
悲劇的な人生の結末を迎えた偉人たちの幻影を追いながら、毎日のように僕はうなされる。
一日も早く、自分のアイデアを形にしなくては、という焦燥感が僕を駆り立てるのだ。
まだ自分は何も世に誇れるものを残してはいない、だからまだ死ぬわけにはいかない。
生き急いでいるのは、突如訪れるかもしれない死期に後悔を残したくないからだ。
大学に入って、初めて経験した喪失。それは、祖父の死である。
僕の人生で当たり前のように存在し、厳しくも暖かくも成長に関わってくれた人の死は、あまりにもあっけなかった。
病室で彼の逝去を見守った瞬間、僕ははっきりと今自分が熊平家の新たな後継者としてのバトンを受け取ったのを感じた。
だから、涙なんて全く出てきやしなかった。そこには担うべき新たな役割があり、それを全うする責任感だけが、高揚感とともに浮上した。
そこには断絶ではなく、確固たる思想と役割の継承があったのだ。
しかし、そうした観念的な充足とは裏腹に、生活は一変してゆく。
祖母が亡き祖父への親しみを込めて昔話をするとき、そして祖父の周りにいた人々の訃報に寂しそうな表情を浮かべるとき、僕は残酷なまでに生々しい喪失を目の当たりにする。
いつか自分が彼らの年齢に近づいて、かつて熱い情熱を滾らせた戦友が、ひとり、また一人とこの世から去っていき、同時に自分の可能性がじわりじわりと減っていくのはさぞ心細いだろう。
年をとるにつれて、お互いに会うことがめっきりとへってしまう。そして、毎年のように訃報に接する。特に祖父が亡くなって、そして彼がともに日本の未来を語った仲間たちがこの世を去っていくのをみるにつけ、自分もいつかと想像が勝手に膨らんでいく。
では果たして、命に限りあるがごとく、人の夢はかくも儚いものなのか。
僕は違うと思う。なぜなら、人は想像力を通して、祖先や亡くなった人々の情熱を受け継ぐことが出来るはずだから。そして、家や、システム、事業を遺すことで、形を変えながらも志は受け継がれるはずだから。
身近なところで、僕は祖先とのつながりに安心を見出している。
毎年最低でも2回は広島の墓参りにいく。墓前で手を合わせる。
その時々で、報告することや相談することは全く違っていても、考えるのはただ一つ、自分は彼らの目から見ても恥じぬことをしているのか、ということだ。
別にお墓から声が聞こえてくるわけでもないけれど、墓前で人は全身のセンサー
でありとあらゆる兆しを受け取ろうとする。
天候の変化、風、線香の炎、なんでも構わないから、今を生きる自分の不安に応えてくれる祖先のメッセージを感じ取ろうとする。
すると、同時に自分の心の霧はすうっと晴れて、一番大切なことが浮かび上がってくる。
結局は、自己との対話なのだけれど、この世を去ったかけがえのない人々への想像を通して、初めて明確に意識される自分がある。
墓前では、自分の悩みは一族の悩みとなり、そしてそこから導きだされる答えもまた、自分ひとりではなく一族の意志として現世に生きる僕の背中を押すのだ。
これもまた幸福なことに、僕の恩師たちもまた、後進である僕に自らの情熱を託すことによって、死後の世に魂を遺している。
母校の実質的な創始者であり、教育界のカリスマの名声を恣にした鵜川昇先生からは、次代の日本を創ることへの情熱と、リーダーとして精神のありようを教えて頂いた。僕が高校1年で、先生の逝去に接した時も、身に余る光栄ながら先生の葬儀に参列する僥倖を得た。
プロジェクトXにも登場したヒロボーの前社長松坂敬太郎氏からは、家名の重圧に押しつぶされそうになっていた時に、「木が周りに遠慮しては、森はできない」と背中を押して頂いた。彼自身も次世代への事業の引き継ぎをするなかで、余命幾ばくの自分よりも次の代でつながらなくては、と後継者の方までご紹介頂いた。
彼らは我が身恋しさにこうしたことをしたのではない。自分の領域で手に負えないものを、次の代へと引き継ぐ。そして次の代が、受け継いだ思想を進化させ、世の中を作り上げていく。その過程に参加するために、彼らは次の代を信じて投資したのだと僕は考える。
人は死ぬときに、何も持っては行けないし、なにも遺すことが出来ない。
資産も名声も、なにもかも本人の亡きあとには消費されるか時の流れに飲み込まれるばかりである。
ただ唯一、本人が死んだとき以上のものになりうるのが、生きているうちに育てた次代の人材であり、システムであり、思想なのではないか。
ちょうど、生きている姿など見たこともないご先祖様がいまも墓参りの度に、何世代も離れた僕の心をつかみ続けるように。
そして、戦後日本の思想的潮流をリードした、編集者粕谷一希が今も各界の指導者たちに膾炙し生き続けているように。
人がもし、死後に名ではなく心を残せるのであれば、僕は自分が創ったシステムや組織を通して、時代に関わり続けたい。
その第一歩として、いまの無数の小さなプロジェクトがあり、同時にそれをよりはっきりと伝えるための手段として、このブログを書き続けたいと思う。
永遠を望みはすまい。僕なき世界が、僕の屍を踏み越えて進むためにも、いまから準備をしたいのだ。
本当に役に立つかどうかなんて、やってみるまでわからないのだから。
玉石混合、大いに結構。