気候変動スタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀をしていましたが、気候変動スタートアップを創業するためスタンフォードにいます。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

大馬鹿になれるか、という問い

僕がここにいるのは、新しいことをしたいと思ったからだ。

全力で走り抜けた20代で集めてきた経験や理解、感情を、一度バラバラにして、ゼロから組みなおしていくために、あえて今の環境に身を置いている。

バラバラにするとき、自分が当たり前にしてきたことができなくなる。

バラバラにされるのは、自分の不安でもあり、自分の自信でもある。

仕事の波に乗って順調にキャリアを進める友人たちを尻目に見て、自分はなんとバカな遠回りをしているんだろう、と半ばあきれたりもする。

バラバラになった自分に、以前のような安定感はない。

やり慣れた方法をすべて放棄して、ゼロから馬鹿みたいに足掻いている。

もしかしたら、自分は何にもならないかもしれない、という漠然とした不安が、暗澹たる雲のように頭の上を覆うとき、叫び返す言葉を持たない。

まして、周囲から、素晴らしい環境で、前途浩々だ、などといわれても、同じ世界のものだとは思えない。

一度大馬鹿になってたくさんの失敗をしながら、自分なりに考えを持とうとしてスタンフォードに来たわけで、エリート然としてかっこつけたところで、何にもならない。

この不安は正しい不安だ、そう言い聞かせる。

 

ただ、愚鈍の極みと知りながら、一つ一つ経験をバラバラにする。

新しい出会いがあり、世界観に触れたり、経験をする。

今すぐに答えを出したい焦りをなだめながら、自分なりにはまりのよい組み上げ方を考える。

ひらめきを渇望する気持ちに対して、どっしり構えることができているか?

今までの自分を忘れて、新しく世界を捉えなおそうとできているか?

発想を練り上げるときのカギとなりうる小断片を、積み上げているか?

時間のかかる考え事に、気持ちを向けられているか?

膨大なインプットを自分の中で整理できているか?

思考と情報を単に統合するだけではなく、自分なりの断面から世界を捉えることができているか?

内向的なプロセスを、ペースを守って進めていく。歩みは遅くとも、確実ではないかと、どこか確信めいた感触がある。

 

この前まで自分が生きがいにしていたスタートアップの世界は、毎日が戦場だった。

難問や難局が毎日のようにやってきて、退屈することがない。

そして、本当に自分の実力がどれほどのものか、覚悟の深さはいかほどか、成功への執念はあるかが、問われていく厳しい世界だ。

だからこそ、生き抜く中で感じたこと、得るものは、絶対的な確信につながる。

「よいことをしたい」という気持ちではなく、「何が善なのか」という明確な価値基準が、強制的に生まれる。

その基準、世界を測り、人を見つめる尺度をもってして、自由な発想をぶつけた時に、何が生まれるのか、ということに僕は興味を持っている。

その実験がしたくて、わざわざ今の環境までやってきたのだ。

だから、僕が大馬鹿になって、ゼロから考え事をして、みっともない失敗をしているのは、普通の挑戦とは重さが違うはずだ。

昔の仲間たちをあっと驚かせるアイデアは何か、自分にしかできない意味のある仕事は何か、自分は何のために生きるのか、極限まで突き詰めるための出発点に立っているのだと思う。

だからこそ、勇気をもって振り抜きたい。

 

 

非線形的な変化をもたらすもの

全体の戦局なり結果が見えない時に、注目すべきははやり次の一手であろう。

本当は、だれしもが未来に対して確証を持って次の一手を決めたいと思っている。

だが、実際には、確証を持てる意思決定など、ほとんど存在しないし、最も価値のある意思決定は不確実性の中で生まれる。

次の一手に何を期待するか、どこまでの熱量を込められるか、あるいはあえて軽くとらえてみるのかは、本人の裁量に任せられる。

複数の未来の結果を比べることはできず、人が不確実性を受け入れるというとき、本当に辛いのは最悪の結果を受け入れることではなく、結果に至る道のりの不安に耐えることかもしれない。

 

人は本能的に、未来を予見し、結果をコントロールしたいと欲する。

それでいて、いざ未来が手中に入ると、今までとは違った何かを求めたり、非線形的な変化を期待してしまう。

思い通りの現実を手にする充足感と、未知の神秘に遭遇することへの期待感は、等しく存在する。

未来に対する人の期待と不安は、自己矛盾を抱えている。

 

意義の大きい挑戦に、確かさは存在しない。

だからこそ、判断の確かさではなく、正しさにコミットしなくてはならない。

ただ前を向いて、進み続けなければいけない。

判断や行動の結果に未来があるならば、判断や行動の指針が正しければ、未来もまたそれに従うはずである。

短い目でみて反応が薄くとも、一貫してやり続けること、あるいは途中でやめないことには価値がある。

自分を信じるというよりも、指針と自らの前向きさ、善意を信じて、行動し続けるしかないのだ。

続ける根拠は何だってよいのかもしれない。思考でも、研究でも、感情でも、直感でも、経験でも、あるいは友人の言葉でも、やめないための理由はなんだってよいはずだ。

 

非線形的な変化は、確からしさの先には存在しない。

計画的な飛躍もおそらくまた存在しない。

人がこれほどまでに避けたがる不確実性の重なり合いこそが、非線形的な変化の兆候なのだ。

進み続けた物理的な距離と偶然の産物で、想像以上の成果は生まれる。

厳しく自らを問いながら、距離を伸ばし、偶然が起きやすいように工夫を積んでいく。

謙虚に自問自答を重ねながらも、いじけない。

感性を鋭利に保ちながらも、恐怖に対して鈍感であり続ける。

立っていられなくなってしまいそうなときほど、立ち続ける執念に意味がある。

平気で歩き続けられそうなときほど、立ち止まってみる勇気に意味がある。

そう言い聞かせて、進んでいきたい。

スタンフォード9‐11週目:器を問い直す時期

人は、別人のように生まれ変わることができるのだろうか。

学生という身分は、特別な時間だ。何をしてもよいし、何をしなくてもよい。

それまでの自分を白紙にしてもよいし、それまでの自分のゲームプラン通りに進めてもよい。

器を広げるべきか、得手に帆を揚げるべきか。

ざっくりまとめるなら、そんなことを考えていた。

 

スタンフォードに来るとき、いろんな人から、自由になって人生を見つめなおしたらいいとアドバイスされた。

仕事から気持ちを引き離して、何が見えるのか、恐ろしくも楽しみでもあった。

朝8時から授業が始まり、課外活動やイベントや食事会を終えて10時ごろに部屋に戻る。そこから翌日の予習をする。

肉体的にストレッチされ、最高の環境で知的刺激を受け続ける日々は、アナリスト時代とおなじくらい忙しい。

せっかくスタンフォードに来たからには、自分の既存の世界観を広げようと試みねばならない。

流行りのプロダクト・マネジメントからヘッジファンドに至るまで説明会に出てみたり、好奇心の赴くままにクラスを取って、自分のComfort Zoneや既知の世界の外を覗き見ようとする。

ビジネススクールの外の世界にも飛び出しては、友人を作ったり議論したりしようとした。

Empathyと頭脳においてGSBほど優れた学生を集めたコミュニティを見たことがない。

 

濁流のように発見が押し寄せ、感情もエネルギーも乱高下する。

新しい環境で、強度の高い交流を続けていると、どこかで限界が見えてくる。

「一生食べきれないビュッフェ」に例えられるように面白く見えていても、どれが自分にとって大切なのかを問わなければ、生き残れない瞬間が出てくる。

周りに揉まれて、波に呑まれてなお、立ち続ける道標は何なのか、というところにこのプロセスの本旨はあるのだろう。

 

プロジェクトに取り組まない自分は、あまりに無力で、空虚だと感じてしまう。

好むと好まざるとによらず、僕が今日の立場にいるのは、人と違うことをしてきたからだ。

それをいまさらやめたところで、僕は三流の凡人になってしまう。

世界中のあらゆる業種のトップパフォーマーが集まるビジネススクールは、スキルの見本市である。

目移りしながら追いつこうとしたところで、せいぜい不完全な二流にしかなれないし、「あれもできた方がよいから」程度の動機では志が低すぎてモノにならないだろう。

何より、自分はそもそも器用ではないし、一般的なキャリアの尺度・スキルセットからはとうに逸脱してしまっている。

今から主流のキャリアを追いかけるのは、戦略としても筋が悪い。

めぼしいスキルをピックアップするのは、勝ち筋にはなりえず、せいぜいバックストップ程度だ。

 

集団に適応することのできない自分は、自分の世界観をプロジェクトに投影して、そこから人間関係を作ってきたのだ。

プライベートを充足させようとか、いろんな人と交友を楽しんでみようとか、普通の人が普通に喜びを感じ、普通にできることが、できない。

ふたを開けてみれば、肩の力を抜くだけで、一般的な生活ができるだろうと期待したこと自体が間違っていたのかもしれない。

あくまでもプロジェクトをする器としての人格に社会性があっただけで、自分自身の存在価値が極めて小さなものであったことに、いまさらながら思い至る。

意味のあるプロジェクトの器としての自分にしか価値がないのだとしたら、潔くそれを認めて、その中で生きねばならない。

ケニアでの5年間は、その生き方を試す場だった。やり方を僕は知っているし、その大変さも、豊かさも、想像することができる。

器としてしか得られない充足を教えてくれたかつての仲間たちに顔向けできる生き方をできれば、きっと成功できるだろうという確信がある。

 

パロアルトという異端の聖地にいるからには、一流の異端を目指すべきで、それには得手に帆を揚げるしかない。

そのほかのすべての能力とリソースは、極端な能力があれば、買うことができる。

むしろ、この地で異端となりうるには、得手しか見ずに振り切り抜く勇気がなければいけない。

シリコンバレーは劇場型のコミュニティである。一握りのスターが壇上に立ち、世界を動かすという掛け声で数多の才能を世界中から集めてしまう。

そして、本当に世界が変わる。もし、劇場の中心に立ちたいと、あるいは立つべきだとわずかでも感じるのなら、すべてをかなぐり捨てて振り抜かなければならない。

 

偉大な事績を成し遂げるのは、狂気を持つものに限られると喝破したのは吉田松陰だっただろうか。

狂気は、世界観と言い換えてもよいのかもしれない。

独自性の泉源であり、行動の規範であり、エネルギーの焦点ともいえる。

どうやって自分なりの狂気を練り上げるかが、この先の課題になる。

 

狂気の中で生きると決めることは、他者を受け付けないナルシスティックな世界に没入することでもある(自分の生活をブログにしていちいち喧伝しなければならない人間のナルシズムについて今さら言及するまでもないのかもしれないが。。。)。

ずっと自分のことばかり考えていると、自分のことを鏡でまじまじと見つめているような、ぎこちなく気持ち悪いのだが、MBAという場所は、自分のことを考える場であり、自分のことしか考えなくてよい場なので、直感に素直にならねばならない。

いい年して青春の叫びをしている、と冷ややかな目を向ける自分には、もう少し待ってもらおうと思う。

Thanksgivingは、旅行の予定をすべてキャンセルして、読書と考え事に充てることにした。

 

(来学期から2学期にわたって名物授業のDesign for Extreme Affordabilityを取ることになった。他学部の年代もコースも違う学生とクライアントの課題を解決するのは緊張感があり、昔は好きだった直感的なアプローチができるのも楽しみ)

(会計の授業では、Enronの不正を最初に報じたジャーナリストのセミナーがありQ&A含めて活発な議論があった。さらっとベストセラー作家やジャーナリストが講義に来てくれるのは、大学院の醍醐味)

(初日にセクションに約束していたSushi Nightを無事に敢行できた。まだまだオペレーションは磨けるが、ともかくもクラスメートへの約束を果たせて一安心)

スタンフォード8週目:優先順位、トレードオフ、パラドクス

中間試験とプロジェクト

スタンフォードのMBAというと学内では飲み会ばっかりやっているChillなイメージがあるのだが、最初の学期は思いのほか忙しい。

理由は3つで、

①最初の学期はクラスの数が多い(8クラスくらい)

②難易度が難しいクラスになるとそれなりに頭を使ったり調べ物をしないといけない

③Chillに見えていても、Academic Smartな学生が多いので、大変に見えていないだけ

というあたりだと思う。授業で20時間くらいとられて、準備や課題などであっという間に20時間はとられて、On Topでソーシャルや就活など考えると、フルタイムで働いていた時と同じような慌ただしさになってしまう。

自分は、MBAでは頑張らない、ゆっくりすると決めているので、睡眠時間は一切削らないことにしている。

となると、さらに自由時間がないわけで、よくよく考えて時間を使わないといけない。

 

MBAでの優先順位付けのパラドクス、見せかけのトレードオフ

GSBでは、中間試験が終わる11月まではクラブ活動とキャンパスでの就活が禁止されている。

学生が生活になじむまでは気持ちのスペースを作っておくべき、というシステムなのだが、それでも毎日同じ時間に3つか4つは参加したいイベントがある。

突然クラスメイトからディナーに誘われることもあるし、アカデミックな成功が周囲の評価に直結しないMBAにあっては、自分の時間にせよ勉強の時間にせよ、死守するのが難しい。

そんな生活も2か月弱が立つと、慣れてくるもので、ランチタイムと夕食時間帯にいくつかい行きたいイベントがあっても、丸ごと切れるくらいの胆力はついてきた。

最終的には「ビル・ゲイツとの少人数ランチ」くらい重要でなければ、また機会はあるとあきらめることにしている。

スタンフォードには様々なリソースやネットワークが集中しているので、一見すると参加するイベントの取捨選択にはトレードオフがあるが、実際のところはGSBのネットワークでほかの方法でつながることなんていくらでもできるので、当日にMiss Outしてしまっても、後日Follow Upすれば回収可能なのではないかと思っている。

見せかけのトレードオフに心を悩ませるのではなく、日々集中して考えていきたい。

逆説的だが、MBAの本質的価値は、有名人との時間ではなく、自分との時間の方にある。

伏線の回収や有名人との時間は、MBA後半戦でいくらでもできるので、まずは自分の軸を見定めることに注力したい。

 

インポスター症候群と勝ち筋

最初の数週間は、よくこの話になった。

様々な領域で成果を上げた人たちが集まる大学院は、学部以上に、周囲と自分を比べて劣等感を感じてしまいがちである。

ただ、フォーカスがあれば、それなりに軽減可能な辛さのように思われる。

自分が何者か、何を軸として価値を持つのかを理解していれば、全方位的に他者と自分を比べる必要はなくなる。

見るもの、聞くもの、あらゆることを比較対象にしてしまえば、あらゆる領域で世界のトッププレーヤーが集まる場で、自分の価値を肯定することは構造上不可能だ。

加えて、能力そのものでさえ、あるレベルを超えてしまえば、比較そのものが無意味になっていく。

テストの点数を比べていいのは、あくまでも自分が追いつく先のある、ギャップの明確な「お勉強」をしていたときの話で、自分のテーマをもって実務なり学問の世界で新境地を開こうというときに、成果以外の比較は意味がない。

領域によっては、そもそも比較すべき成果の評価さえ、自分の時代には起きないかもしれないのだ。

したがって、自分の境地を開けるか否かという問いに、周囲の評価はあまり重要ではない。

誠実に自問自答を重ね、その過程で生まれる課題を周囲と解決していく、閉じたプロセスを続けていく。

オープンイノベーションのきっかけやサポートするエコシステムは開いていても、イノベーションを現実にもたらしていくのは、Laser Focusedな閉じた努力だと思う。

スタンフォードやMBA、Knight Hennessy Scholar、シリコンバレーといった異なるエコシステムに身をさらしながら、自分なりのスタンスを見極めている。

頭で考えるだけではなくて、心の中で整合性が取れて、身体感覚としてSink Inするまでは、気持ちが悪くとも待たねばならない。Trust the process.というやつだ。

いちいち刺激が強いので、振り回されそうになりながら、これというバランスを見極めたい。

そこからは、自分のスタンスで物事を進められた人間が成果を上げていくんだろう。

(今日はHalloweenということで、Storytellingのワークショップも皆さんドレスアップしていた笑マスコットの恐竜Kawaii。)

スタンフォード5-7週目:考えていること

考え事をするために大学院にやってきた。

まさにそれをやっている。MBAにはActivityを求めてくる人と、Meditationを求めてくる人とがいて、僕はおそらく後者なのだろう。

 

カオスに身を浸す

ビジネスパーソンとしての振り返りと膨大な量の新しい知識の吸収は、ビジネススクールならではの醍醐味だ。

昔は、勉強なんて自分でもできると思っていたが、一定量を超えた知識を優秀な人とアクティブに学んでいく過程は、単なる勉強を超えた世界観のアップデートになっていく。

滝行のように到底受け止め得ない量の刺激に打たれながら、自分のキャリアや人生について考えるのが、僕がMBAに求めていたことだ。

だから、わからなくなることを許容した。迷っているし、もがいているし、つらくもなるけれど、それこそが目的に至る道なのだと信じている。

Trust the Processという言葉が僕は好きだ。無駄な焦りを捨てて、存分にのたうち回ろうと思う。はい、カオスカオス。

途方に暮れているのは、悩んでいるというファクトと、道がないことへの感情的なリアクションを切り離せていないから。未熟。

 

キャリアについて考える

分野、職制、職位、地域、全部ぐっちゃぐちゃである。

全部白紙に戻して考え直そうという無茶なことをしている。

色々な説明会に顔を出して、働いている自分の姿を想像する。

抽象的な話よりも卒業生のパネルに行ってみて直感で何を思うのかを重視している。

頭の中では想像できても、パネルを聞いたり講演会を聞いて、「これじゃないな」と感じたらバサバサと切り捨てていく。

それでも組み合わせは十分にたくさん存在する。なので、2ページほどのメモを書き始めた。2ページに収まるレベルに軸とシナリオを考え抜かないといけない。

少しずつ、仮説が組みあがっていく。それがどこまで実践できるかは、わからない。

アメリカに残る必要があるのなら、移民でさえない自分の立場のせいで、思いがけない制約もある。

 

生き方について考える

身辺を単純明快にしておくことを、注意深く守ってきたつもりである。

プロジェクトに全力投球するときに、私の世界が入り込むことは、受け入れがたい。

それでも、この年になって情が移ってきた。ケニアにいる友人や仲間のことが恋しくなる。

挑戦するときに、理解し見守ってくれる人たちの存在が、得難いものだと感じる。

新しい道を模索する最も静かで孤独な時間に、人恋しくなる。

仲間と挑戦する温もりを知ってしまった身に、単独行の寒さが染みる。

それでも、自分で選んだ道なのだから、ぐっとこらえて進んでいこうと思う。

海内知己、天涯比隣と自分に言い聞かせる。

ハングリーさを失ってしまったら、なんのためにここに来たのかわからなくなってしまう。

 

Knight Hennessy Scholarリトリート

スタンフォードに来て一番衝撃的な経験だった。

今年のコーホート70人余りと、3日間リトリートで寝食を共にする。

日中はアクティビティがあり、夜は2時3時まで焚き木を囲んで語りつくす。

PhDの学生には明確な仮説と実証のプロセスがあり、プロフェッショナルスクールの学生には使命感と実績がある。

何を議論しても尽きることのなく新しいテーマや情報が出てきて、逆に自分の話には分野の違い関係なく本質を突いてくる。

生まれて初めての経験で、どっと疲れが出た。圧倒されたし、本当に世界を超えるべく人が集まっているのだと感じた。

スタンフォードの元学長でAlphabetの会長のJohn Hennessyもずっとプログラムに出ていて、いろいろな話が面白かった。

キャンパスに戻ってからも、一週間はずっと頭痛がした。脳みそが全部ひっくり返って、何が正しいのか、普通なのかの基準がわからなくなった。

世界を変えるために、最も優れた学生と最も優れた教育機関が本気で場所を提供してくれている。

何をするかは各人の自由。とてつもないプレッシャーで、進学を決めた時に"Challenge Accepted”だと感じたのを思い出した。

プレッシャーを感じながら、まったく無視して、真に価値がある何ができるのか。期待に応えるためには、期待を忘れねばならない。

真っ白な心で、真っ白なキャンバスに絵を描かねばならない。

 

Doug Leoneの講演会で聴いたこと

シリコンバレーあるあるなのかもしれないが、VCがスタンフォードの学生向けにセミナーをたくさん開いている。

カジュアルな会でも、GPやFounding Managing Partnerといった肩書の人が当たり前のように、学生を迎え入れてくれている。

ディールのソーシングが命のアーリーVCの気概というかプロフェッショナリズムを感じる。権威になればなるほど、セルフスクリーニングで起業家がためらってしまうリスクがあるのかもしれない。みんな驚くほどフランクである。

なかでも楽しみにしていたのが、Sequoiaの会長のDoug Leoneのレクチャー。

”Words Matter”というのが口癖の彼にぜひ質問をぶつけようと、当日は朝から頭がそのことでいっぱいになった。

中でも知りたかったのは、流行り廃りが激しいシリコンバレーで、何年もかけて事業を作る起業家はどうやって流行に乗り遅れずに軸を保てるか、というもの。

初心に立ち返って、QAは一番乗りで手を挙げた。気候変動のようにHipedな市況で、起業家はどうやって流行に乗り遅れず、なおかつ事業にフォーカスできるのか?

答えは、以下。

①そもそも、今の流行は数年前から仕込まないと乗れないから、今この瞬間の流行は気にするだけ無意味。

②安易に資金調達しない。エクイティは有限なのだから、PMFするまでは粘るべき。特に、アーリーの投資家はFirst One to Believe in Your Businessだから、お金以上の意味を持つことを忘れてはいけない。

③アクセルを踏めると思うまでは思い切ってBlack Outしろ。

 

考えていること

まとまった考えを持つまでにはまだまだ時間が必要だけど、感じたままに書いておくことにも価値があろうと思って、無理をしてみた。

スタンフォードは巨大な圧力釜であり、Spectator Societyのアメリカの象徴であり、世界の未来を担うことを当たり前に期待される場所でもある。

自分に何ができるかはさっぱりわからないし、来る前よりも確証はなくなった気さえする。

でも、力を抜いてみて初めて生まれる何かがあるはずで、それを虎視眈々と狙っていくしかない。

ベンチャーキャピタルの教授から、”One hypothesis that you know about the world and nobody else knows"ができたら成功する、というアドバイスをもらったのだけれど、使い古されたこの文言にも真理は含まれていると思う。

おそらく、スタンフォードでもシリコンバレーでも大半の人が重視することは、まったく重要ではない。

流行に乗ることは重要ではなく、人とネットワークを持つことは重要ではなく、スキルがたくさんあることも、メディアへの露出も重要ではない。

ただ一つの課題について考え抜いて、小さくても強靭な穴を社会に開けたところに、Spectatorは集まっていく。

人が集まるから重力があるのではなく、圧倒的な重力の気配に人が集まるのだ。

身体感覚として、シリコンバレーを吞み込んでしまいたい。そうしたら、世界に挑む道筋が見えるのではないかと直感する。