気候変動スタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀をしていましたが、気候変動スタートアップを創業するためスタンフォードにいます。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

208週目:

公私ともに、ぎっしり詰まっている一週間。

仕事は淡々と前に進めつつあるが、想定外のハプニングも起きる。

ここから3週間で年内の仕事のタイムラインと成果が決まるので、そこに向けてガンガンボールをゴールに向けて蹴っていく。

長い期間練ってきた構想もまとまりつつあり、思考もさることながら、最後は正しいタイミングで、正しいインスピレーションを持つのが大切になってくる。

今まで以上に体調管理、気持ちの維持に努めたい。

チームでは、レビューと昇進の発表などもあり、独立したマネージャーによる運営に一層アクセルを踏んでいく。

ベンチャーに来たからには、ひりひりする緊張感も、自由に構想する楽しさも、どちらもあったほうが優秀で貪欲なプロフェッショナルのメンバーには良いのではないか、と考えている。

フィードバックはより厳しく、直球になるが、積み上げてきた信頼関係があればこそ、お互いにストレッチできればよい。

 

プライベートでは、先週ボッシュ財団のフェローシップが終わり、今週でAcumen Fellowshipの最終講座。

事前課題が100ページ以上の読書課題で、隙間時間に読んでいたとはいえ、学生時代を思い出した。

Acumenの創業者Jacqueline Novogratzも参加するらしいので、ちょっぴり楽しみである。

書評を書いたり、本を読んだりしているのは、このところ寝つきが悪いせいなので、体調管理を徹底したい。

週末に数か月ぶりにジムに行ったのは良かったので、ワクチンも打ったことだしジム通いを再開しようかと思う。

「自省録」批判:理性・文明・自己啓発の非力さについて

「自省録」が示す理性の痛み
ストア派の哲学者が、理性によって自らを導き、人生の苦境や世間の浅薄に感情を揺さぶられることなく、魂を解放しようとしていた基本姿勢に、学生時代の僕は感銘を受けた。
同時に社会に出て仕事を通じて様々な人と出会うにつれ、高潔さを保つためであれば、自ら命を絶つこともいとわないストア派の教義は、我が命を人質にしてまで理性に執着しようとする、極めて感情的な思想だとも感じた。
仏教的な価値観に根差すならば、人生の無力に直面して、命を捨てると自らの天命に脅しをかけねばならない状況は、高潔さでも倫理的主導権でも何でもない。ただただ非力であり、悲痛である。
 
思春期には、伝説的な哲人皇帝の勇ましい鍛錬の記録に思えたマルクス・アウレリウスの「自省録」も、よくよく人生の軌跡をたどれば、5人の子に先立たれ、長年の遠征に疲弊した哀れな老人の痛ましい抵抗にも見えてくる。
「木に実る葉 風はその幾つかを地面へと落とす子供とはそういうものだ」という(確か)イーリアスの有名な引用は全くと言っていいほど力ない。
この悲痛な叫びに、彼があれほどに繰り返した指導理性の力は全く及ばない。
忘れようともがく姿が、理性や高潔以上に、彼の痛みを伝えてくる。
 
まして、指導者としてのマルクス・アウレリウスの歴史的評価は、ローマ五賢帝の最後の皇帝、すなわち権限移譲に失敗し、暗黒時代の端緒を開いたという惨憺たるものだった。
指導理性は、果たして彼を幸せにしただろうか?ローマを導いたであろうか?という問いに、僕は口を詰まらせる。
彼は自らの魂を自らによってのみ救済しようとした。
理性に頼るというのは、主体的な倫理観を持つと同時に、自己の認識の限界に依存することでもある。
マルクス・アウレリウスの「自省」的性格そのものが、他者とのかかわりを意識的・無意識的に排除していたであろうことは容易に想像がつく。
他者との隔絶を、悲劇と描くか、孤高の生涯ととらえるか、はたまた茶番と切り捨てるか。
 
「こころ」が描く文明のあいまいさ
ギリシャの哲人皇帝が愛用した理性の延長上にある概念に、文明がある。
夏目漱石の「こころ」に登場する「先生」を、主人公の「私」は「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来ない人」と評している。
親族に裏切られた経験を持ちながら、自らも親友を裏切るという仏教的カルマを描きながらも、「先生」は自らの罪を自ら裁き、誰も知らぬところで制裁を加える。
「先生」の自らの罪に対する姿勢を、理知的であると賞賛すべきか、自らの殻に閉じこもったエゴイズムと蔑むべきかは議論の余地があるだろう。
 
同時に、「こころ」には「先生」個人の良心と理性、贖罪を超えたより包括的な概念が表現されている。
文明開化の時代に生きる「私」と「先生」の姿は、ストア派の「理性は自分の内に宿るもの」という規範の属人性を超えて、社会そのものがプロモートする文明性・合理性・先進性といった概念の存在を暗示する。
「先生」と「私」の対話には、西洋的教育を受けた自負がにじみながらも、個人主義に対するぎこちない感覚があらわれている。それでいて、二人とも自らの出身地である「田舎」とは距離を置いている。
マルクス・アウレリウスが絶えず自問した指導理性というプライベートな倫理規範は存在せず、むしろ西欧文明を中心とする新しいルールに適応しようとする、時代の流れのようなものとの交流が度々登場する(細かく言うと、伝統的な日本的価値観を遺していた明治の精神性から、西欧文明を疑わない楽天的な大正という新風が対比されている)。
「こころ」が時代を超えて読まれる背景には、理性と感情という普遍的な矛盾に加えて、西欧的文明観に取り込まれる違和感と安心感、という現代にも通じるテーマが巧みに組み込まれているからではないだろうか。
 
最終的には、社会が押し付ける文明も個人が持ちうる理性も、新たな苦悩のタネでしかない。
非合理的で前時代的な、感情的な世界を排除した結果として生まれる強い感情に「先生」は苦しめられ、最後には死を選択する。
明治帝の崩御に合わせた殉死というテーマは、「先生」が屈したものが自らの過ちへの理知的な罪悪感だったのか、時代という大きなうねりへの感情的な衝動だったのか、ふたつの可能性を同時に残すものだ。
「先生」の自死には、指導理性に従った高潔な覚悟はみられず、新しい時代に抗議する積極的なメッセージも含まれていない。
Nil Admirariの境地にあって、人生を達観し、同時に諦観している。
はたから見れば、高等教育を受けたエリートの内面にある、理性と感情、東洋と西洋の葛藤を、無力ないしは無関心として「こころ」は提示する。
 
自己啓発の外部標準化
21世紀になって、「人間的であること」が注目を浴びている。
理性と文明が行きつく先が、「豊かさ」というベールをまとった資本主義的合理性の追求であったという認識は、今となっては一般化しつつある。
そこで登場したのは、自己啓発という、不平等な社会における処世術であり、幸福のコモディティ化である。
 
「意識の高い」ビジネス書で語られる、二番煎じの幸福論や自分語りの一般化、ポジショントークの類にはとりとめてユニークな価値はない。
ビジネス書や自己啓発セミナーで課金の対象となる「自分と向き合う」行為そのものが、「コモディティ社会に生きながら、コモディティではない自分に」あこがれる極めて平凡な欲求を満たす消費活動に転換されている点は、見落とされがちである。
「そんなあなたに!」というよく聞くフレーズそのものが、「あなた」というオリジナルな個人をセグメント・抽象化する標語になっていることに人々は恐ろしく鈍感だ。
むしろ、「何で私の苦悩を理解してくれたのか!?」と飛びつく人々の非力さは痛ましい。
 
自己啓発という名のもとに、人々の苦悩が抽象化・標準化されていく過程で、経済的にコモディティであった人々は、精神的にもコモディティになっていく。
一般大衆が持ちやすい不満や悩みを一般化してまとめたブログや書籍、講演が、「あなたのために」提供され、「自分と向き合う大切さ」に目覚めた消費者は、入門レベルの学術書には目もくれない。
自己啓発へのアクセスは、誰にでも手に入るように提供される一方で、自ら啓発の意義を問う精神の自由や自由をもたらすリテラシーは、手の届かない専門書の砦の中に隔離されている。
極めて合理的に、人間の感情が経済的搾取の対象とされている。
今日喧伝される「人間的であること」や「質の高い生活」や「自由な生き方」は自然なようで、内的感情の外部標準化というパラドキシカルな側面を持つ。
 
戸惑いと模索
人は、自分の存在の不安定さや社会との距離感に戸惑う。
理性という殻に閉じこもることも、社会の波の中で戸惑いながら生きることも、自分探しの旅にお金を使うこともできる。
理性も感情も、はたまたそれ以外の「何か」も、道具に依存して解決しようとする姿勢には限界があり、結局は非力を痛感することになる。
救いようがない、と絶望する必要はないのだろうが、模索を続ける以外にしようがない。
読書に際限がないように、模索には終わりもなければ答えもない。
あるとすれば、一時的な腹落ち感のようなもので、それさえも新しい本に出会い、新しい見方に触れるたび、更新されチャレンジされていく。
まるでサーフィンでもするように、寄せる波もかえす波も、半ば受け入れつつ、半ば自らの力でコントロールしなければならない。まさに”Enjoy the ride”の精神。
学生時代に愛読した本を読み返しながらふとそんなことを思ったので、備忘のために書き留めておく。

207週目:初心

ベタなのだけれど、Facebookで4年前の出来事と称して、三菱商事を退職した日の写真が出てきて、妙に感傷的になっている。

去年はシリーズBの達成感と脱力感で気にならなかったのかもしれないが、今年の自分にとってはズシリと響くものがあった。

このところ、ケニアやスタートアップやファイナンスについて、質問を受ける機会が増えていて、自分の仕事が認められるのは嬉しい反面、初心とは何なのか、忘れたくないのでここに書いておきたい。

 


三菱商事からケニアのド田舎NGOに飛び込んだ時の気概や覚悟を、忘れずにとどめておきたい。

過剰な自意識と脆い自我のはざまで、葛藤したからこそ今の自分があることを忘れたくない。

今後インタビューなどで理路整然としたきれいなストーリーを求められたとしても、自分の原点は渇望と不安という相反する概念によってのみもたらされた、といって僕は憚らない。

 


身の丈に合わない野心を持ちながらも、もがきながら進んできて、かろうじて今日まで生き残れたのは、優先順位を誤らなかったからだと思う。

マネージャーになるということは、責任感ではなく、実際に責任を持つことにほかならない。
「出来ます」と手を上げて、何が何でもやり遂げること。
言い訳をせずに結果にだけコミットすることが、僕がKomazaで今のチームを立ち上げられた理由だと思う。
では、何に責任を持つのか?
答えは、経営の全範囲であり、プロフェッショナルとしての倫理規範であり、自己の貢献のスタンダード設定にほかならない。


優秀な人ほど、野心をもって仕事をする。
今の自分より、明日の自分の方が良い仕事ができると信じて、実績を貪欲に追い求める姿勢は絶対に必要だ。
他人の期待に関係なく、自分に期待するものがないと、個人としての成長はあり得ない。
自分のためにキャリアをつくれるのは基本的には自分だけだ。
応援してもらえないとか、機会がないとか、そんな平凡な言い訳は聞きあきた。
自身の仕事に情熱をもって、成長機会を渇望し、機会があれば何としてでもものにする執念は、決して否定できない成功への定石だと、今でも信じている。
自分の成長にコミットできるのは、上司でもメンターでもなく、自分しかいない。
誰よりもハードな要求を自分につきつけ、時には泥水を一気飲みしながら、進んできた。


ただ、本当に優れた仕事は、自分のためではなくクライアントや企業の未来、起業家のポテンシャルを真摯に考えた結果生まれる。これもまた真実だと思う。
そして優れた仕事がキャリアを切り開く。
この順番を間違えたり、大きな視点を見落としては、優れた仕事も優れたキャリアもおぼつかない。
振り返ると、肥大した自己を持て余し、不遜で不安な自意識を持ちながらも、身を滅ぼさずに仕事ができたのは、この優先順位を頑なに守ってきたからだと思う。
4年前の自分は、キャリアの実績と自己の成長を死ぬほど欲していたけれど、それと同じか、ぎりぎりそれ以上に他者を主語にして仕事してきた気がする。
自分の納得いくインパクトは、昇進によって得られるものではない。
自分以外の誰か、たとえば起業家にとって最も正しいと思う仕事にこそ、インパクトがあった。

この順番を誤っていたら、今の自分はなかったに違いない。

インスピレーションをくれたのは、自分より優秀で努力を惜しまず、なおも大きな目的に向けて淡々と仕事をしていた三菱商事の上司たちの姿だったのだと改めて思う。

 


チームを育てる立場になって、自分に何が出来るかという問いは、まさにかつての上司が自分に見せてくれた背中を、自分も示すことができるのだろうか、という問いに直結している。

この1年、シリーズBという大きなマイルストーンで投資家が信じてくれた未来を、どうすれば実現できるか、燃えカスになった自分に無理やり火をつけて、模索し続けてきた。

振り返れば、もっとも自分を引き延ばしてくれたものは、成長への意欲以上に、チームに背中をゆだねる経験だった。

これまでは、先達の後ろ姿を追いかけてきた自分が、未熟ながらも初めて先達として、人に背中をゆだね、背中を示す立場に立った。

人から圧倒的に信頼される経験は、個人の人生観を変えうるのだと気付かせてくれた。

 


自分のチームはレファレンスのみで採用した純粋な同志である。

至らない自分が、どうすれば彼らにインスピレーションを与え、彼らの先達となるに値するのか。

この問いだけが今の自分を突き動かしている。

自分なら出来るだろうという自意識やプライドを捨て、いかにして彼らに有意義な成長機会と成果をもたらせるのか?

自分の未熟をこれ以上突き付けてくる問いはみあたらない。

 


4年前の最終出社日に、自分を送り出してくれた部署の方々や同期たちとは、違った人生を歩みながら、改めて原点に立ち返り、自分の未熟を噛みしめている。

まだまだ道半ば。

205-206週目:Q4始まる

スケジュールというか、やることがとっ散らかっていて、ブログが滞ってしまった。

こういうものはコンスタントに毎週書き続けたい反面、ちょっと寝かせれば面白い記事がかけるのではないかと淡い期待を毎度抱いてしまう。

が、引き続き週末も半分以上は仕事なので、近況アップデート。

 

仕事は至極順調に進んでいる。

諸般の事情で夏休みは蒸発してしまったものの、9月に入る前にしっかり下準備をした仕事の成果が結実しつつあり、とてもよい。

とにかく仕事は前倒しで、夏休みの中だるみを経て年末に一気にディールがスクイーズされるタイミングを前に、がっつり売り込んだのは正解だった。

いよいよ年末に向けた追い込みシーズンでもあり、改めて年内の達成事項の棚卸しをしている。

 

Acumen Fellowもボッシュ財団のGGF Fellowも終盤に向けて動き出す。

実はボッシュ財団のフェローシップではクロアチアのリゾートでリトリートが予定されていたのだが、ワクチン接種諸々も間に合わず今回は断念。

仕事を離れて大胆かつ無責任に未来を語るフェローシップからは、人生をどう生きるべきか、という大局観についてヒントを得た気がする。

Acumen Fellowはすべてオンラインながら、芯を喰った質問をバシバシ投げつけられ、心身ともに疲弊している。

一方で、自分の中で長らくリミッターになっていた思い込み(Assumption)を言語化する契機になるなど、人としての自己理解が進んでいる。

気候変動という職業上のテーマをボッシュ財団Fellowで、リーダー・ソーシャルセクター人材としてのアイデンティティをAcumen Fellowで、という挟み撃ち作戦は今のところ奏功しているのではないか。

去年のシリーズB以降、燃え尽きる事、コロナで気分転換の旅行ができないことを見越して、内省と自己理解、テーマ探訪に時間的・資金的リソースを振っているので、年末・来年頭あたりには前半生の難題と呼べる論点はほぼ結論を出せる見通し。

引き続き、ストイックに頑張っていきたい。

204週目:ソーシャルインパクトの求道者性

お金は主観を持たず、ただマーケットの判断で分配される。

価値判断の尺度としてお金が正しいかは別として、市場は明確かつ定量的に、「市場にとって」大切なものにプライスをつける。

 

一方、「インパクト」はどこかフワッとしていて、明確で客観的な外部指標を定めにくい。

「インパクト」には、たえずあるべき姿を定義し、求め、批判的に検証する自分という存在が介在する。

インパクト測定や政策的な評価など、客観性をある程度担保することはできても、「完全に客観的に正しいインパクト」など存在しない以上、最後は経営者がインパクトの存在や優先順位を判断することになる。

また、現場でインパクトを100%実現しようとすると、ときとして自分の理想の通りに社会が動くことを期待する間違ったメンタリティが生まれてしまう。

だから、インパクトを謳う事業の経営者は、絶えず自分の中の善悪が、一般にとっても意味があり、独善的な価値観の過剰な押し付けになっていないか考える必要がある。

 

こうした問いは最終的には、人の幸せのあるべき姿、社会のあるべき姿、ひいては自分のあるべき姿という内省へとつながっていく。

したがって、ソーシャルインパクトに携わる人々には、求道者的な性質が備わっているといえるかもしれない。

自分だけでは解決できない大きな問題を相手に、自分の存在価値を絶えることなく疑いながら、変化を仕掛けていくプロセスは、取り組むものを人としてストレッチさせる。

結果として、大半が燃え尽きるか撤退を余儀なくされ、わずかな変わり者がリングに立ち続ける。

厳しいのは、本人に人格的な成熟が訪れたとしても、社会課題が解決できるとは限らないこと。

残酷なことに、優れたリーダーや人格者であっても、掲げた理想を実現できるとは限らない。

結果を出すのは社会であり、市場経済がお金で価値に報いるような明確な形で、答えを教えてくれるわけでもない。

そのあたりの難しさを、すべて承知したうえで、それでもやり続けられるか、というのが何十年単位で事業を続ける資質なのではないか。