208週目:
公私ともに、ぎっしり詰まっている一週間。
仕事は淡々と前に進めつつあるが、想定外のハプニングも起きる。
ここから3週間で年内の仕事のタイムラインと成果が決まるので、そこに向けてガンガンボールをゴールに向けて蹴っていく。
長い期間練ってきた構想もまとまりつつあり、思考もさることながら、最後は正しいタイミングで、正しいインスピレーションを持つのが大切になってくる。
今まで以上に体調管理、気持ちの維持に努めたい。
チームでは、レビューと昇進の発表などもあり、独立したマネージャーによる運営に一層アクセルを踏んでいく。
ベンチャーに来たからには、ひりひりする緊張感も、自由に構想する楽しさも、どちらもあったほうが優秀で貪欲なプロフェッショナルのメンバーには良いのではないか、と考えている。
フィードバックはより厳しく、直球になるが、積み上げてきた信頼関係があればこそ、お互いにストレッチできればよい。
プライベートでは、先週ボッシュ財団のフェローシップが終わり、今週でAcumen Fellowshipの最終講座。
事前課題が100ページ以上の読書課題で、隙間時間に読んでいたとはいえ、学生時代を思い出した。
Acumenの創業者Jacqueline Novogratzも参加するらしいので、ちょっぴり楽しみである。
書評を書いたり、本を読んだりしているのは、このところ寝つきが悪いせいなので、体調管理を徹底したい。
週末に数か月ぶりにジムに行ったのは良かったので、ワクチンも打ったことだしジム通いを再開しようかと思う。
「自省録」批判:理性・文明・自己啓発の非力さについて
207週目:初心
ベタなのだけれど、Facebookで4年前の出来事と称して、三菱商事を退職した日の写真が出てきて、妙に感傷的になっている。
去年はシリーズBの達成感と脱力感で気にならなかったのかもしれないが、今年の自分にとってはズシリと響くものがあった。
このところ、ケニアやスタートアップやファイナンスについて、質問を受ける機会が増えていて、自分の仕事が認められるのは嬉しい反面、初心とは何なのか、忘れたくないのでここに書いておきたい。
三菱商事からケニアのド田舎NGOに飛び込んだ時の気概や覚悟を、忘れずにとどめておきたい。
過剰な自意識と脆い自我のはざまで、葛藤したからこそ今の自分があることを忘れたくない。
今後インタビューなどで理路整然としたきれいなストーリーを求められたとしても、自分の原点は渇望と不安という相反する概念によってのみもたらされた、といって僕は憚らない。
身の丈に合わない野心を持ちながらも、もがきながら進んできて、かろうじて今日まで生き残れたのは、優先順位を誤らなかったからだと思う。
マネージャーになるということは、責任感ではなく、実際に責任を持つことにほかならない。
「出来ます」と手を上げて、何が何でもやり遂げること。
言い訳をせずに結果にだけコミットすることが、僕がKomazaで今のチームを立ち上げられた理由だと思う。
では、何に責任を持つのか?
答えは、経営の全範囲であり、プロフェッショナルとしての倫理規範であり、自己の貢献のスタンダード設定にほかならない。
優秀な人ほど、野心をもって仕事をする。
今の自分より、明日の自分の方が良い仕事ができると信じて、実績を貪欲に追い求める姿勢は絶対に必要だ。
他人の期待に関係なく、自分に期待するものがないと、個人としての成長はあり得ない。
自分のためにキャリアをつくれるのは基本的には自分だけだ。
応援してもらえないとか、機会がないとか、そんな平凡な言い訳は聞きあきた。
自身の仕事に情熱をもって、成長機会を渇望し、機会があれば何としてでもものにする執念は、決して否定できない成功への定石だと、今でも信じている。
自分の成長にコミットできるのは、上司でもメンターでもなく、自分しかいない。
誰よりもハードな要求を自分につきつけ、時には泥水を一気飲みしながら、進んできた。
ただ、本当に優れた仕事は、自分のためではなくクライアントや企業の未来、起業家のポテンシャルを真摯に考えた結果生まれる。これもまた真実だと思う。
そして優れた仕事がキャリアを切り開く。
この順番を間違えたり、大きな視点を見落としては、優れた仕事も優れたキャリアもおぼつかない。
振り返ると、肥大した自己を持て余し、不遜で不安な自意識を持ちながらも、身を滅ぼさずに仕事ができたのは、この優先順位を頑なに守ってきたからだと思う。
4年前の自分は、キャリアの実績と自己の成長を死ぬほど欲していたけれど、それと同じか、ぎりぎりそれ以上に他者を主語にして仕事してきた気がする。
自分の納得いくインパクトは、昇進によって得られるものではない。
自分以外の誰か、たとえば起業家にとって最も正しいと思う仕事にこそ、インパクトがあった。
この順番を誤っていたら、今の自分はなかったに違いない。
インスピレーションをくれたのは、自分より優秀で努力を惜しまず、なおも大きな目的に向けて淡々と仕事をしていた三菱商事の上司たちの姿だったのだと改めて思う。
チームを育てる立場になって、自分に何が出来るかという問いは、まさにかつての上司が自分に見せてくれた背中を、自分も示すことができるのだろうか、という問いに直結している。
この1年、シリーズBという大きなマイルストーンで投資家が信じてくれた未来を、どうすれば実現できるか、燃えカスになった自分に無理やり火をつけて、模索し続けてきた。
振り返れば、もっとも自分を引き延ばしてくれたものは、成長への意欲以上に、チームに背中をゆだねる経験だった。
これまでは、先達の後ろ姿を追いかけてきた自分が、未熟ながらも初めて先達として、人に背中をゆだね、背中を示す立場に立った。
人から圧倒的に信頼される経験は、個人の人生観を変えうるのだと気付かせてくれた。
自分のチームはレファレンスのみで採用した純粋な同志である。
至らない自分が、どうすれば彼らにインスピレーションを与え、彼らの先達となるに値するのか。
この問いだけが今の自分を突き動かしている。
自分なら出来るだろうという自意識やプライドを捨て、いかにして彼らに有意義な成長機会と成果をもたらせるのか?
自分の未熟をこれ以上突き付けてくる問いはみあたらない。
4年前の最終出社日に、自分を送り出してくれた部署の方々や同期たちとは、違った人生を歩みながら、改めて原点に立ち返り、自分の未熟を噛みしめている。
まだまだ道半ば。
205-206週目:Q4始まる
スケジュールというか、やることがとっ散らかっていて、ブログが滞ってしまった。
こういうものはコンスタントに毎週書き続けたい反面、ちょっと寝かせれば面白い記事がかけるのではないかと淡い期待を毎度抱いてしまう。
が、引き続き週末も半分以上は仕事なので、近況アップデート。
仕事は至極順調に進んでいる。
諸般の事情で夏休みは蒸発してしまったものの、9月に入る前にしっかり下準備をした仕事の成果が結実しつつあり、とてもよい。
とにかく仕事は前倒しで、夏休みの中だるみを経て年末に一気にディールがスクイーズされるタイミングを前に、がっつり売り込んだのは正解だった。
いよいよ年末に向けた追い込みシーズンでもあり、改めて年内の達成事項の棚卸しをしている。
Acumen Fellowもボッシュ財団のGGF Fellowも終盤に向けて動き出す。
実はボッシュ財団のフェローシップではクロアチアのリゾートでリトリートが予定されていたのだが、ワクチン接種諸々も間に合わず今回は断念。
仕事を離れて大胆かつ無責任に未来を語るフェローシップからは、人生をどう生きるべきか、という大局観についてヒントを得た気がする。
Acumen Fellowはすべてオンラインながら、芯を喰った質問をバシバシ投げつけられ、心身ともに疲弊している。
一方で、自分の中で長らくリミッターになっていた思い込み(Assumption)を言語化する契機になるなど、人としての自己理解が進んでいる。
気候変動という職業上のテーマをボッシュ財団Fellowで、リーダー・ソーシャルセクター人材としてのアイデンティティをAcumen Fellowで、という挟み撃ち作戦は今のところ奏功しているのではないか。
去年のシリーズB以降、燃え尽きる事、コロナで気分転換の旅行ができないことを見越して、内省と自己理解、テーマ探訪に時間的・資金的リソースを振っているので、年末・来年頭あたりには前半生の難題と呼べる論点はほぼ結論を出せる見通し。
引き続き、ストイックに頑張っていきたい。
204週目:ソーシャルインパクトの求道者性
お金は主観を持たず、ただマーケットの判断で分配される。
価値判断の尺度としてお金が正しいかは別として、市場は明確かつ定量的に、「市場にとって」大切なものにプライスをつける。
一方、「インパクト」はどこかフワッとしていて、明確で客観的な外部指標を定めにくい。
「インパクト」には、たえずあるべき姿を定義し、求め、批判的に検証する自分という存在が介在する。
インパクト測定や政策的な評価など、客観性をある程度担保することはできても、「完全に客観的に正しいインパクト」など存在しない以上、最後は経営者がインパクトの存在や優先順位を判断することになる。
また、現場でインパクトを100%実現しようとすると、ときとして自分の理想の通りに社会が動くことを期待する間違ったメンタリティが生まれてしまう。
だから、インパクトを謳う事業の経営者は、絶えず自分の中の善悪が、一般にとっても意味があり、独善的な価値観の過剰な押し付けになっていないか考える必要がある。
こうした問いは最終的には、人の幸せのあるべき姿、社会のあるべき姿、ひいては自分のあるべき姿という内省へとつながっていく。
したがって、ソーシャルインパクトに携わる人々には、求道者的な性質が備わっているといえるかもしれない。
自分だけでは解決できない大きな問題を相手に、自分の存在価値を絶えることなく疑いながら、変化を仕掛けていくプロセスは、取り組むものを人としてストレッチさせる。
結果として、大半が燃え尽きるか撤退を余儀なくされ、わずかな変わり者がリングに立ち続ける。
厳しいのは、本人に人格的な成熟が訪れたとしても、社会課題が解決できるとは限らないこと。
残酷なことに、優れたリーダーや人格者であっても、掲げた理想を実現できるとは限らない。
結果を出すのは社会であり、市場経済がお金で価値に報いるような明確な形で、答えを教えてくれるわけでもない。
そのあたりの難しさを、すべて承知したうえで、それでもやり続けられるか、というのが何十年単位で事業を続ける資質なのではないか。