気候変動スタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀をしていましたが、気候変動スタートアップを創業するためスタンフォードにいます。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

140-141週目:なぜこの仕事をしているのか

数年かけて取り組んできた仕事がようやく日の目を見ようとしている。

最後の勝負というと大げさかもしれないけれど、ぎりぎりのところで踏ん張る生活がこの2-3週間で続いている。

前回こういう感じになったのは、卒論の追い込みの時ぐらいで、その時のブログを読み返しては、「ああ、求めていた結果に届く直前の感覚だな」と思っている。

WFHもあって、週に100時間超ゴリゴリ成果物を仕上げて、毎日ブレークするかもしれない不安に吐き気を感じながら交渉・課題解決をしていく、仕事以外何もない生活を続けている。

 

成功すれば業界初・世界初をいくつかクリアできる、失敗すればだれもが知る失敗になる。

ギリギリの土壇場はもう何度も経験してきたものの、プレッシャーにつぶれそうになる。

想定外のトラブルがあり、思い通りにならないことがあり、とにかくも膨大な不確定要素と雑務に忙殺されている。

自分より先達だと思っていた人の信じられない行動に呆然としつつ、それを織り込んで生存のために最善策を打ち続ける毎日。

怒りに震えながらも、だれかの無知は自分の価値と言い聞かせる。

限界ギリギリでアドバイスをくれる周囲の人々に何度助けられたかわからない。

 

もう無理だ~、とぼやきながら仕事をしていてふと気づいたのは、これこそが自分が3年前に三菱商事を退職した自分が求めていた生活であったということ。

重大な責任、のるかそるかの局面、意思決定の自由度、世界初の仕事。すべてが揃って今ここにいるのだと、改めて思い起こす。

そう考えれば、今の試練こそが、いわば目標に向けて積み重ねた毎日の結果であり、ご褒美のようなものなのだ。

挑戦を許されずに苦悩した時間が長かった分、今こそこの挑戦を存分に生かさないといけない。

 

事業に携わるものとしての使命があり、ファイナンスを職業とするものの役割があり、一人の個人としての野心がある。

それを実現する舞台に立てていると思えば、肉体的につらくても、心はむしろ自由に思える。

何よりもあらゆる試練を楽しめる自由闊達な精神だけは、手放してはならない。

理不尽を僥倖と思える心を忘れてはならない。

 

ちょっと宗教じみているけれど、そういう心のありようがあれば、困難だってきっと克服できるはずだ。

悔いのない仕事をしたい。ただそれだけ。

140週目:Global Landscape Forum(GLF)登壇

今週は、LandscapeやConservation周りの国際カンファレンスGlobal Landscape Forumが開催された。
もともとはBonnで行われるはずだったのが、COVID19の影響もあって、全セッションがデジタル開催。
Climate Policy Initiativeのパネルで、農家とファイナンスについて話をした。
Q&Aが中心だったので、会社のプレゼンはそんなにできなかったのだけど、外部との接点という意味ではいい刺激になった。

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ここからは余談。初Zoomカンファレンスの反省点。
ビデオを見るのも疲れるし、チャットとマルチタスクになるし、間合い測りづらいし、普通にビデオなし、手元メモでやるほうがいいのではないかと思う。
次回は練習・対策して臨みたい。
  • ビデオ映るせいか表情が固まっており、いきなり発言しようとすると噛む
  • チャットや質問のアップデートが飛んでくると、マルチタスクになり慌てる(普通は、質問をメモ取りながら、雰囲気でQA返答者が決まる)
  • モーメンタムがつかみにくい、質問者が見えないので理解確認が難しい。
  • 他の発言者をフォローし続けるのが、生セッションよりも難しい。
  • いちいちミュート解除するの、結構ペイン。間合いが乱れる。
  • 世界各地からダイアルする形式だと、時どき通信が途切れて、いきなり質問が来たりする。テンパる。一回質問を理解できないまま返答しないといけない場面があった。
  • 緊張してるのか、やたらと肩がこる。こんなガチガチになったのは小学校の授業参観以来。

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続山月記

高校生の時に読んで特に印象深かった文学作品に、教科書にも乗っている中島敦の「山月記」があります。
成績優秀で将来を嘱望されたこともある主人公が、自己に執着するあまり、最後は虎になってしまうという物語。
自分という存在に悩む多感な時期に読んだこともあり、当時読書感想文を書けと言われてずいぶん困ったのを覚えています。
コロナ禍で引きこもり生活をしている最中、高校の読書感想文がたまたま出てきたので、主人公が虎になって去ってしまう漢文学・説話的なエンディング(「指輪物語」なら勇者の出発で終了するレベル)に続く文章を、暇に任せて書いてみました。
コロナの恥はかき捨て、ということで、興味のある方だけ読んでみてください。
ただの道楽ですが、一応、書評ということにしておきます笑。
 
 

続山月記

この山には虎がいる、それも詩を詠むそうだ。
昔は人間をたくさん喰ったらしいが、最近はただ崖から旅人を見下ろすばかりで、とんと近づこうともしない。
峡谷を抜ける行商たちの間で噂が流れ始めたのはそれからしばらくしてのことだった。
 
岩肌のひときわ険峻な頂きに腰を下ろしたなり、李徴はじつと月としたに広がる街の夜明かりを見比べていた。
かつて机を並べ、切磋琢磨した学友の雄姿を思い起こしながら、李徴ははじめて安堵を覚えた。
 
袁傪に再会するまでの李徴は、寝床のそばの川べりに水を飲みに行くたびに、変わり果てた自分の姿におののき、恥じらいに身を焼いていた。
あたかも、汚らわしいけだものに堕ちた自分を責めるように、かえって彼は獰猛にふるまった。
いまや自然界の主として山河の友であるべき存在でありながら、まるで人間のように不遜に草木に当たり散らした。
人間ではないから虎になったはずなのに、今度は虎でありながら自然に親しむということができなかったのだ。
 
だが、旧友は、李徴が虎になっても、まるで何も変わっていないかのように自分を友として遇した。
親友との懐かしい再会に胸が熱くなっていた李徴も、しばらくしてはたと気づく。
自分の魂は、はらわたの底にある混とんとした情念の濁流は、今も昔もちっとも変っていないということに。
「自分はずっと前から虎であったのだ」、松明の明かりに先導されて宿場へ向かう隊列を眺めながら、李徴は力なく吠えた。
「利発さと機敏さで知られた自分が、ここまで鈍感であったとは」呻く李徴には言葉を繋ぐ気力さえ残っていない。
もう考えまい、そう呟いて岩山から飛び降りると、ねぐらではなく近くの草むらに体をうずめた。
 
翌朝の李徴はいつになく快活だった。
何を見ても雑念が次々と沸き起こっては、牛にたかるハエのように心を乱していたのが嘘のように、すっきりとしている。
昨日までは水面にうつる自分の姿に驚いていたはずなのに、今日は通りすがりの渡り鳥にあいさつをした自分の変わりようにがくぜんとした。
「自分はずっとむかしから虎であった」という一大発見は、李徴の心を揺さぶった。
一時は畜生の自分など生きるに値しないとまで嘆いた彼であったが、人間であるべくして、人間であろうとして生き続けた前半生を思い出すにつけ、今となっては肩の力が抜けていくのである。
 
「さて、どうしたものか」
市井の人々が毎日のように発する、こんな当たり前の問いさえ、彼にとっては新鮮であった。後悔のない今。濁りのない未来。
今となっては、昨日までの自分が何に悩んでいたのかさえも思い出せない。
ねぐらにしている洞窟にのそりのそりと戻った李徴は、藁敷きの寝床に隠していた詩文の作品集を取り出した。これは、今の李徴に残された人間時代の唯一の痕跡である。
けだものの姿では筆を持つことはできない。でも、胸の奥底から、李徴が天賦の宝としてたいそう自慢していた頭ではなく、はらわたの中から言葉はあふれてきた。
まるで池の水をすくうように、言葉は彼の自由自在になった。
 
「筆さえも要らない」、李徴は毎月のように最高級の文具を求めて都に家人を走らせていた若き日を思い出す。
美しく毛先の整った筆と、碁石のような光沢を放つ年代物の墨は、自分の芸に何を与えてくれていたのだろう。
 
彼は詩文に没頭した。猛々しい虎に姿を変えてもなお、詩文の美しさ、そして複雑さは彼を魅了した。
だれよりも優れて才能を持つ彼が、必ずや自分よりも凡庸であったに違いない無名の個人の足元にも及ばない詩文の世界は、新月の夜に見上げる星空のように無限であった。
詩情に向き合うとき、彼は自分の心を見つめた。狂おしいほどに探し求め、果ては彼を狂人にまでしてしまった、自分の心も、詩を練る彼には手に取るようにつかむことができた。
つかむことができるから、磨くこともできる。これは、異類に身をやつしてから彼が得た、数少ない自信であったに違いない。
 
一度のめりこむとほかのことに目もくれないのは、無精な虎の本能というよりは、彼の昔からの性格である。
題材を求めて山路を駆け巡る。一日の大半を彼は見晴らしの良い岸壁の頂で過ごした。
切り立った山肌の一端から望まれる山野の輪郭、四季折々移ろいゆく草花のようす、裾野の街から立ち上るかまどの煙、峠を通る人間のにおい、なにもかもが五感を刺激した。
満足のいく句が出来上がると、岩肌に声色をわざと反射させるように、滔々と朗じてみせた。
周りの動物たちは、人間かぶれの山の王者を好奇と恐怖の入り混じった目で、草陰からそっと見守るばかりである。
 
山路を歩む人々の間で、詩を詠む虎がいる、という噂が広まったのはこのころのことであった。
 
 
 
「宿はまだかね」
峠を超える中腹に差し掛かろうというところ、ひとりの老婆が夕暮れの道を急いでいた。
急ぐといっても、大きな風呂敷を背負い、道端かどこかで拾った枝を支えに、ふうふうと息をする。
日課の散歩を終えた李徴はこの老婆にくぎ付けになった。もう六十を超えたであろう故郷の母を思い出したのである。
人間の身であれば手の一つも貸せるものをともどかしくヒゲをピクリとさせると、何か気配を感じた老婆が李徴の方をじっと見つめた。
老婆が思わず腰を抜かして身を縮めると、李徴は幼子のころ家で馴染んだ子守唄を、極めて慎重な声色で謳い始めた。
なぜそんなことをしたのかと、動物の世界に生きる李徴に問うのは無意味であろう。
道端の岩に腰かけていた老婆は、はたと立ち上がると意を決したように歩き始めた。李徴には、老婆がだれのために夕暮れの山路を急ぐのか、分かった気がした。
 
人喰い虎が出るといわれた山道に、どうぞ召し上がってくださいと言わんばかりに野宿する男がいる。
着ているものも、決して卑しいなりではない。久しく口にしない人間のにおいを確かめるように李徴がぐるりと男のまわりを一周する。
夕餉にする前に、礼儀として顔だけでも拝んでおこうと思ったのである。
男の頭に前足をかけた李徴は声を上げそうになった。人間のにおいと同じくらい長いこと忘れていた、積年の憤怒と憎悪が深い皴となって狂人の顔面に刻み付けられていたからだ。
見れば男は寝てさえもいない。目をかつと開いて、人間の業のすべてを煮つめて飲まされたような表情でかすかに震えている。
この男の目つきに李徴は覚えがある。猜疑と軽蔑、かつて自分が社会を眺めたいびつな目線が、野獣となった自分を射返していた。
虎になって間もない李徴なら、こんな者は有無を言わさず引き裂いてしまったであろう。この男の醜さは、自分の醜さであることに戸惑いを感じて。
のそり、のそり、のそり。男の顔にかけた前足を下ろした李徴は、一間ほど後ずさりすると、どかりと腰を下ろしたまま、ピクリとも動かない。
半刻もたっただろうか、月に照らされて爛々とした眼で、この狂人を凝視したまま三度咆哮した。
男は立ち上がると、町の方へ去っていった。
 
李徴が虎になって十年が経ったころ、七百人はあろうかという大行列が国守の礼を取って峠に差し掛かった。
よりにもよってこの一団は、峠の狭い道に座り込むと、酒盛りを始めたのである。
これには李徴も驚いた。人食い虎で有名な峠でのんきに酒を飲んで果ては一夜を過ごすなど、虎になった李徴にもおかしい。
かつての狂人ならまだしも、天子の命あって下向する国守にあるまじき軽率。
 
全宇宙の中心といわれた都の衰退にあわせて、各地で不穏な動きがあることを、李徴は行き交う行商の話から聞いている。
落ちぶれたのは天子の権威だけではなく、天子を輔弼し、国家の秩序を護るべき家臣たちではないか、と峠での無防備な宴を見た李徴は感じた。
「この情けのない一団の総大将のまえに躍り出て、喝を入れてやる」
けだものの身になってひさしい彼に、官吏であったころの青春の血気がよみがえってくるようだ。
 
宴会がひとしきりして、無遠慮な従者たちがあたりかまわず床を取ると、李徴は足音一つ立てずに帷幕のすきまに頭を入れる。
幕の内では、白髪まじりの貴人が、一対の酒杯を用意して、まるで李徴を待ち受けたように、端座していた。
どうせ主人もだらしなく寝っこけていると踏んでいた李徴は、周囲の喧騒とは異世界のひんやりとした雰囲気にすっかり気を呑まれてしまった。
虎は首から先を陣幕のすきまから出したまま、ぴたりと動きを止める。
 
「如何なるか此れ学問」
長すぎる沈黙に李徴が体を翻そうと試みたその時、春風のようにおだやかに太守が声を発した。
 
李徴もとっさに応じる。
「墨筆は薪に如かず。清泉自ずから渓をなす」
 
「天下を治めるの道如何」
 
「天上天下彼我に別なし。唯、水鏡に我が身を映すのみ」
 
「宜なる也。君こそ我が畏友、李徴子にあらずや」
 
声にどこか覚えがある。主人とは、李徴子が莫逆の友、袁傪であった。
「李徴ではないか!」と10年前に気さくに声をかけてきた袁傪は、今は禅僧のように油が抜けて、ほっそりした眦の感じにかすかに若き日の面影を残している。
ぼそりぼそりというわずかな応答の間に、二人の目には涙が浮かんだ。
 
それまでは旧友にも他人のごとく平然として、落ち着き払っていた袁傪がおもむろに李徴の前足を握りしめた。
「貴兄を待つこと十余年、国威は日に日に弱まり、諸侯は天子など気にも留めない。長官として君側に控える私に君ほど才覚があったなら、どうするであろうと自問しない日はなかった」
この日をどれほど待ったことだろうか、という大殿の言葉にほだされて、李徴もまた、百獣の王たる威厳を忘れて滂沱した。
 
人間でありえないからこそ、自分は虎になった。そう、李徴は信じていた。
今、莫逆の友の告白を耳にして、信じがたい心地がする。人間として、器用に生きることができた友人が、異類として世間からはじかれた自分をうらやむ気持ちが、にわかには理解できない。
たしかに、虎としての李徴の生活は、かつてないほどに単純明快で充実していた。
だからといって、人間界で栄達を極めた袁傪から、自分を褒められるなど思いもよらない。
自分を虎になるまで追いやった都が、今自分を求めている。まったく不思議なことだと、李徴は首をかしげる。
 
「一緒に都へ来てはくれまいか」
深々とこうべを垂れた友人が顔を上げた時、李徴はもとの精悍な人間のすがたに戻っていた。
 
 
 
あれからもう暦が一巡はしたであろうか、峠の人喰い虎のことなどすっかり忘れ去られたころ、かつての活気を取り戻した都では「屏風の虎」にまつわる噂が世間を賑わせていた。
なんでも天子様は難しい問題にぶつかると必ず、猛虎が描かれた屏風の前で一晩を過ごすらしい。
そして、その屏風を描いた絵師は、信じがたいことにかつて自分も人喰い虎であったそうな。
 

137-139週目:

自宅勤務をしていると、生活がすべて内面で完結してしまうので、本当にブログに書くことがない(言い訳)
毎週末、一応パソコンに向かって、何を書こうか考えるのだけれど、やっぱり思いつかない(言い訳)
そうこうしていると、仕事のことを思い出して、ついそっちに逃げてしまう(言い訳)
 
なので、今週はもうあきらめて、この数週間の凡庸な日常を振り返りたいと思う。
意識がとても低いブログなので、興味のない人は読まないでください。。。
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(そういえば、Expatお家賃市場が暴落しているので、ハウスメートと新しい家に引っ越した)
 
 

①料理

意識の高い若手プロフェッショナルとして、料理スキルの向上を日夜目指している(違)
Twitterで始めた質問箱で、以下のように煽られているので、今後もしっかり比類なき主夫スキルアピールを続けていく所存(違)

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ということで、うどんを打ってみた。
ケニアの小麦粉が、いわゆる「うどん粉(中力粉)」と同じグルテン比率であることが判明したので、気軽に作れる。
めんつゆが希少なので、しょうゆと鶏手羽だし、日本酒とだしで、スープを模造して、鳥南蛮うどんにする。
しょうが、にんにく、さけ、しょうゆで味付けしただけの鳥の方がおいしかったのが癪だけれど、イベントっぽいので十分楽しかった。
 

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②読書

仕事の合間に読む本が、数少ない気分転換になっている。
 
最近読んだ中では「原民喜 死と愛と孤独の肖像」(梯久美子著)という本が、なかなかヒットだった。
原爆文学の作家という教科書で習った程度のイメージだったので、原文の力強さに圧倒されている。
「鎮魂歌」という半ば遺書のような作品なんて、自意識過剰っぽい一般的な私小説とは比べ物にならない狂気と切迫感があってとてもよかった。

 

原民喜 死と愛と孤独の肖像 (岩波新書)

原民喜 死と愛と孤独の肖像 (岩波新書)

  • 作者:梯 久美子
  • 発売日: 2018/09/20
  • メディア: Kindle版
 

 

 
スタートアップ・ファイナンス関連では、「Twitter創業物語」と「コーポレートファイナンス」がどちらも充実したディテールで勉強になった。
 
あと、ソーシャルセクターの盟友、税所篤快さんの新著を事前に献本頂いたので、リビューを書くなどした。
キラキラに見える日本のソーシャルセクターは、実は死屍累々の残酷物語だらけで、次のステップに行けずに苦しむ人が多い中、起業家的なフットワークを生かしながら、まっすぐに自分と向き合おうとする税所さんの姿勢に勇気をもらう。
自分の模索を本にしてしまう、というのは面白いアイデアだと思った。内容もぎっしりでおすすめです。

 

 

③Fortnite

同居人が持っているPS4のフォートナイトを、時々拝借している。
戦闘を最小化し装備を充実させつつ、最後の最後でうまく立ち回る戦法を、散々ハウスメートにNinjaだといじられ続けること1か月、ついに優勝できた。
自己満足。

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④コーチング

去年末からCotreeでコーチングを始めた。
仕事をするときは目の前に全力投球主義が基本だけれど、そもそもでたらめな仕事をしていたら本末転倒なので、自分の方向感を作っていくために活用している。
技能的な成長は、わかりやすく、取得方法も確立されてる一方、能力と成果の最大化をするためには、スキル取得から自己特性の最大化に舵を切っていく必要がある。
大きなテーマが出てくるたび、数回に分けて集中的にセッションをして、すこしずつ積み上げてきた成果をさらに時間をおいて批判的に検証する。
日々の内省の質を飛躍的に向上させてくれている。
毎日周囲をしばきたおして行動させるのが仕事なので、だれかにNudgeしてもらえるというのは、ありがたい。
投資対効果が圧倒的に高いと思う。

 


そういえば、来週のGlobal Landscape Forum(もともとはBonnで開催予定だったのがCOVID19でオンライン開催になった)でKomazaのファイナンスについてパネル登壇するのでClimate Financeにご興味おありの方はぜひ!

136週目:ディールモーメンタムの身体的理解

ディールモーメンタムは、スタートアップにおいては大切な概念だ。
社内プロジェクトを多少の困難に負けずに推進しきるためには、完璧さよりも8020でやり切るモーメンタムが必須だし、ファンドレイズはじめとする対外営業ではスタートアップならではのハプニングを含めてポジティブな関係性を維持・発展させるためにモーメンタムが欠かせない。さらにはチームとしてモーメンタムを維持し、ギリギリで成長と破綻のバランスをとらなければ、長期的な成果は望めない。
 
商社1年目の時に、「お前はこの案件のモーメンタムがわかっていない。感じないの?」と何度も言われた言葉が、社会人6年目にしてようやくつかめてきた気がするので、忘れないように書き留めておきたい。
例えがニッチすぎるかもしれないけれど、あくまでも直感的な理解のためということで、ご容赦頂きたい。
あと、即レスとか関係者の事前調整のコツとかそういう実務的な話は巷のHow To本に譲ります。というか、もっとうまくなりたい。
 

60分の楽曲を、30分でリハーサルする

世界的なオーケストラ指揮者を特集するドキュメンタリーで、こういうシーンに直面したことがある。
これまたアナロジーで、60分ある楽曲を本番30分前にリハーサルしないといけない時にどうするか。
 
細かい点をカバーする時間は当然ないわけで、まずは骨子を合わせ、そのあとは楽曲のうねりを作るための強弱やアクセントなど、「節目」にしぼって直していく。
いいかえれば、細かな点は実際の演奏の流れにゆだねて、全体の流れをはっきりと輪郭づけることに集中する。
そうすると、プロが揃っているオーケストラは、リハーサルした全体のうねりに従いながら、各々の技量でうまく調整して整合の取れた音楽を奏でることができる。
 
これを案件に当てはめると、案件の強弱やリズムを一歩下がってみることで、いつが力の入れ時で力の抜き時なのかを鮮明に描くように意識する。
そうするとガムシャラに突き進むだけではない自然な流れが描けるようになり、さらに節目を意図的に設定して抑揚をつけると、最小限の努力で最大限の結果を生みやすくなる。
 
これはサボるという意味ではない。
様々な要素が絡み合う仕事を、円滑に進めるためには押すだけではなく引いてみたり、待ってみたり、色々な所作を組み合わせて流れをコントロールする必要があるという意味で、そのためには全部をコントロールしようとするより局所的にきっかけを作っていくほうが、かえって効果的だったりするという話。
これが上手くいくと、案件が単なる仕事ではなく関係者にとって心地のいい「体験」になる。
いいかえれば、抑揚(要点)とリズム(タイミング)の管理。

 

山火事とキャンプファイアの違い

同じ山で焚き木をする行為でも、山火事とキャンプファイアは歴然とした違いがある。
それは、燃えている炎と周りに用意された水のバランスだ。
燃えている炎を消し切るだけの水が周りにあれば、それはコントロールされた炎であり、人が意図的に起こすキャンプファイアである。
一方、炎が大きくなりすぎて、周りの水では鎮火できなくなると、それは災害であり、仕事であれば文字通りの「炎上」になる。
様々な案件を同時に推進して、自分やチームのキャパシティギリギリを攻めているときに大切なのは、今の自分の周りの炎(=案件のリスク)と水(=案件のリスクが発現した時に鎮火できるキャパシティ)のバランスを常に「水>>炎」にし続けることだ。
 
悪いことは同時多発的に連鎖するので、今全部案件が燃えたら、消すのにどれくらい労力がいるかを考える。
ちょっと危なっかしいキャンプファイアでいい思い出になるのか、あるいは消し切れずに山火事になってしまうのか、個別の案件の心配よりも進行中の案件の総体としてリスク管理するほうが合理的なことが少なくない。
そもそも、個別に心配して対処できるくらいなら、まだまだ案件を抱えられる気もするわけで、本当にきわどくなったら、同時多発炎上を自分とチームで消し切ることができるかを自問しながら、バランスをとるのがよい。
いいかえれば、案件ポートフォリオのリスク管理。
 
これらを組み合わせると、最高のパフォーマンスを上げるためには、「全案件が一気に炎上してもキャパシティが崩壊しないギリギリを保ちつつ、ゴリ押しに頼らない、要所とタイミングを心得た案件実行していく」という結論になる。
まだ何となく端緒がつかめた程度なので、これからは何度も反復して理解を深めていきたい&仕事ができるようになりたい。