気候変動スタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀をしていましたが、気候変動スタートアップを創業するためスタンフォードにいます。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

Komaza 99週目:

 
今週は、チームが休暇から戻ってきて一気に回転数が上がった。
夏休みを取っていた投資家サイドも徐々に戻ってきており、会話をPick Upしていく。
永遠に感じるファンドレイズも2019年前半でカオスにも輪郭が見えてきたので、残りの4か月でそれを形にしていきたい。
同時並行で、外部コンサル含め6-8本のプロジェクトを進め、状況に合わせて週次で優先順位を調整する。
気が遠くなるけれど、経営戦略的な部分も含め、仕事を広げるチャンスなので、がっつり頭を使っていきたい。
 
明日からはTICAD7のために日本へ。
いつも林業のアドバイザリーとしてお世話になっている、JICAさんのお招きで、林業と水資源のパネルに登壇予定。
アフリカ関係者のみなさん、当日どこかでお会いできるの楽しみにしてます!
 
そういえば、Corprate Financeチームの採用を絶賛再オープンしましたので、我こそはと思うExコンサル・投資銀行・ファンドの方は、お気軽にメールください。
tomonobu.kumahira[@]komaza.org(@のカッコを外してください)

いつ起業すべきなのか?

「いかに自分の市場価値を最大化できるか」という問いが、好景気を背景にした転職ブームもあってかあふれている。
いかに自分にユニークな価値をつけて、市場価値のある人材になれるかが強調され、独立しろとか副業しろとか起業しろとか、煽られまくるのが、今の20代・30代な気がする。
 
僕はといえば、この「自分の価値を最大化する」という安易な言葉は一体何なのか、起業するのとプロフェッショナルでいることはどう違うのか、このあたりのフワッとした感じが気持ち悪く、そうした議論とは距離を置いていた。
ただ、実際問題としてこれからどんな人生を送るのか考えるうえで、「いつまでにどんな仕事・役割をしていたいのか」というのは大切な問いなので、この一見フワッとしたトピックについて考えてみようと思う。
言い古された内容かもしれないが、あくまで思考整理と思ってご容赦ください。
 

個別スキルは足切りでしかない

まず、「客観的価値」は決して積み上げられるものではないということだ。
点数が高ければいい大学に行ける的な、「スキル取得=価値向上」の図式は、人材のトップ層においては足切り要素でしかなく、特異な価値にはならないのである。
そして、知らなきゃいけないことを猛烈にキャッチアップするだけでは、土俵に立つまでしかできず、そこから先の「差別化要素」を10年以上も経験差のある先人たちと競いながら作り上げないといけない。
(このいい事例が、実力主義のファイナンスであっても、ある程度の結果的年功序列が見られる。知り合いのファンドマネージャーは、年長だから偉いのではなく、優秀さで差がそこまでない場合、経験年数が多いほうが優れた判断ができるからだと言っていた)
 

組み合わせによる希少性向上

さて、優秀な人同士の競争が純粋な頭脳や定型化されたスキルで勝ち抜けないとなると、次に注目されるのが「組み合わせ」による希少性の向上だ。
例えば、公認会計士の資格を持っている人は相当数いても、ベンチャーのCFO経験のある会計士ははるかに少なく、IPOまでやったことのある会計士CFOはさらに少なくなる、といったように経験・スキルの組み合わせを使って、確率論的に希少性を高めることができる。
これは、大手の企業で出世するのではなく、独立したプロフェッショナルとしてキャリアを歩む場合に、有効とされる方法だ。
僕自身も、総合商社で転職していた際に、「インパクト投資」と「金融投資」さらに「ハンズオンのNPO」経験を理由に、本来必要な修士号なしで国際機関からオファーが来たことがあった。
各領域のTop Tierに入るのは難しいし時間もかかるので、若者のフットワークで面白くて相関性がありそうないくつかの領域で動き回ってみると、案外2-3年でも十分な差別化要素になる。
こうした領域間の掛け算と各領域の深堀りを続けていくと、NHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」に出てくる「あの人にしかできない仕事」的な世界が見えてくるのだろう。
 

スキル確率論の限界

で、ここで今自分が疑問に思うのは、「スキル確率論的な市場価値向上の限界はどこなのか?」ということだ。
具体的に言い換えると、世界長者番付に載っている人たちは、自分よりスキル確率論的に優れた人たちを雇いまくってはいても、彼ら自身のスキル希少性が必ずしも圧倒的というわけではなさそうなのは、なぜなのか?という問いになる。
例えば、孫正義は「孫正義」という人物だけの価値で評価し、新しい会社のお雇いCEOにする場合に支払われる金額と、ソフトバンクグループという企業・投資グループを率い、世界中に強いネットワークを持つ稀有な事業オーナーとしての価値は、桁がいくつも違うだろう。
プロ経営者と起業家の違いともいえる。
(念のため、厳密に考えるなら、経営者としての判断能力や情報ネットワークなどは確率論的なスキルであり、彼がソフトバンクで20年作り上げてきたチーム、インフラと資金力がアセットなので、彼はどちらの点でも世界トップクラスにいるといえる)
 

アセットの複利効果

この疑問に答えるカギは、おそらく「アセット」の概念だ。
資本主義社会において、大資本が、小資本ができないことをやることで、事業間の格差を広げていく、「規模の経済」の原則が、人の価値にも働いている気がする。
 
「スキル確率論」はあくまでも「個人」を単位とした考え方だ(人脈などのSocial Capitalもあるにはあるが、それを使いこなせるのは当人のみで、その周辺の人にも効用が及ばない点において、やはり個人が基本単位だ)。
一方、長者番付なりランキングで世界最高レベルにいる人たちは、自分で自分の事業を興した人たちで占められており、彼らにとってのアセットは間違いなく「個人+事業」のコンビネーションである。
 
とすると、卓越して、ユニークなスキルセットを持つ人であっても、その人のアセットは1人分の能力でしかなく、一方の事業家は凡庸かもしれないが数百人でも数万人でも人を雇って彼らのアセットとすることができるのである。
スキル確率論の難点は、このアセットの拡大可能性の少なさにある。周りを巻き込むスキルはあっても、事業経営ほどにシステム化することは難しいし(時々プロフェッショナル間で気の合う優秀な仲間同士で仕事を回している事例は耳にするが)、常に自分のスキルの延長上として他人をコントロールするは結構難しい。
つまり、振り回せる人数もコントロールできることのスケールも、 事業家の方がプロフェッショナルより遥かに大きく、したがって生み出せる収益も多くなる。
 
したがって、10億円稼いでいる経営者はそれなりにいるが、10億円稼いでいるプロフェッショナルはほとんどいない。
これは、能力の差というよりも、事業というアセットを所有していることで、コントロールできる範囲が大きくなり、影響力も増す、という純資本主義的なロジックだ。
さらには、アセットというのは複利で増えていくので、時間をかけることで急成長していく。
スキル確率論とは真逆だ。
大経営者や事業家が何十年も仕事をしているのは、成功したからやっているのではなく、何十年もやっているから成功しているといえるのかもしれない。
 

So What?

ここまで考えると、価値最大化を目的にするならば、スキル確率論で希少性を高めるプロフェッショナルは、時間をかけて自分のコントロールするアセットを増やし続けてきた事業家にはかなわない、という聞いたことのある話に行きつく。
 
もう一歩突き詰めれば、「スキル確率論」的なキャリアと「アセット拡大」的な起業志向は、背反ではないのでどっちも使ってみることだってできる。
 
スキル確率論的なキャリアは、短期間で効率的に頭角を現す(業績を上げて注目されたり、高い給料を20代でもらったりする)上で重要だが、ある程度まで上がってしまえば価値向上スピードは下がり、Plateauしていく。
一方、アセット拡大論的なキャリアは、複利的な増え方をしていくので、最初はあまり急成長していないようにみえても、キャリア終盤までコミットした先には、スキル確率論でたどり着けないレベルまで価値を高めることができる(世界を征服したかのように言われるGAFAでさえ10年選手以上だ)。
 
とすると、理論上は、キャリア序盤でスキル確率論を使って急上昇し、組み合わせによる価値向上が鈍化したタイミングで、起業するなりして自分のアセットを作り始めることで、うまくS字カーブをつくれるはずだ。
昨今話題の、「マッキンゼー・ゴールドマンをやめて起業」はこのS字カーブの好例である。
 
では、このSカーブの折り返し地点はいつなのか。
これは、個人の勝負する領域とタイミング次第で、正解はなさそうである。
「やってみないとわからないのが起業」という声と、「やってみたら経験不足であっというまに身動き取れなくなった」という声のはざまで、最後は「エイヤっ」と決めることなのかもしれない。
本人の適正とそして人生で成し遂げたいことの意図をクリアにして初めて、そのゴールに合った道筋が見えるのだろう。
悩ましいところである。

Komaza 98週目:瀧本先生の訃報に接して

瀧本哲史先生の訃報が、あまりにも衝撃的で、まだ調子が戻らない。
留学時代からニュース記事や著作を通じて刺激をもらい、いつかはきっとお会いしたいしできるだろうと期待していた、むしろ会えるように頑張りたいと思える数少ない先達だった。
直接師事したわけではないので、先生の業績やメッセージについて語るべくもないけれど、大学時代からずっと先生の本を読んで、決断の糧にしてきた。
Mediocreな意思決定をしたくなる度に、自分を奮起させる言葉を先生の本に探していた。
 
僕にとって瀧本先生の思想は、現代の福沢諭吉のようなものだと思っている。
技術や変化が激しい時代には、「何のために学ぶのか?」、「どうやって生きるのか?」という根源的な問いが大切になる。
各々が自分なりの仮説をもって挑戦しないといけなくなり、そのやり方次第で成功も没落もするときに、どうのように根源的な質問に答えるのか、誰もが思い悩む。
ましてや、主流派を歩んできた「エリート」にとっては、どこまでが踏襲していい世界で、どこからが新しい世界なのか、見極めるのが難しい不安な時期でもある。
そのヒントを、明治維新の立役者福沢諭吉は「学問のすすめ」(当地の道具から実学へ移り行く学問)や「文明論之概略」(社会における文明という規範の変化)で、若者にもわかりやすく伝え、教壇に立った。
瀧本先生の「僕武器」はまさしく「学問のすすめ」の21世紀日本版であり、同時に、瀧本ゼミという研鑽の場は慶應義塾のような教育の場になっていたのではないかと、僕は勝手に想像している。
 
この記事を書きながら、感傷的になったりしたりしていたけれども、瀧本先生の遺された思想や感化を受けた仲間(これも勝手な妄想だが、多分気が合う)といかに未来を作れるかに、僕は心を向けねばならないのだと感じる。
瀧本先生という良識ある大人であり、優れた教育者であり、卓越した思想家を失った日本を悲しむのではなく、社会にとって有為な成果を残していくことこそが、追悼であり感謝なのだと思う。
人生は短い。できることをとことん悔いなくやっていきたい。
寄り道せずに、直球の問いをぶつけ続けたい。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

Komaza 96・97週目:

96週目

この週は実は一時帰国で日本にいた。というのも、還暦を迎える父のサプライズパーティーのため。
本来ならばこういうことは長男の自分が企画すべきなのだけれども、父の友人が中心になってオーガナイズしたサプライズに便乗させてもらった。
帰国していること自体秘密なので、SNSはもちろん、誕生日もケニアにいる体でSkypeするなど、色々と気を遣い、無事成功した時の安心感といったらない。
任されていた中締めのスピーチも「3回笑いを取る」との商社パーソンの心構え通り。
 
理想的にはこの機会に休暇を取りたかったのだけれど、仕事が山積みで夏休みバケーションに対面先が入る直前の駆け込みが重なって、実質的にはフル稼働。アポもほとんどの入れていない。
ラッキーなことに、往復のフライトをビジネスクラスに有料アップグレードできたので、多少体への負担は軽くなった。
 
余談:日本帰国直後から発熱しだして、まさかここにきてのマラリアか!?と大慌てし、片っ端から診療可能期間のリストに電話して、大騒ぎになっていた。
ちなみに、東京だと、早稲田にある国際医療センターが設備も充実しておりかつ休日対応可能ということで、大変お世話になった。
健康保険を外れているので、診療は200%(そんなのあるの?笑)で、休日対応も含めて大体3万円強かかった。
熱帯マラリアは珍しい病気でもなく、治療薬もしっかり効く病気なのだけれど、風邪だと思って放置して悪化してなくなってしまうケースが外国人旅行者・訪問者に散見されるらしい。特に、熱に周期性があるので、日中熱が下がって良くなったと思って安心して、夜になって急変するのがマラリアの特徴とのこと。
マラリアごときに仕事の邪魔されてたまるかと意地になって、気苦労に懲りたので、次回はマラリアの治療薬をケニアで入手して、持ち歩こうと思う。
 

97週目

ケニアに戻ってからは、仕事、仕事、仕事。チームがガンガン進めてくれている案件のレビューだけで気づいたら終わっていた気がする。
キャパシティの150%を無理やり片付けに行っているので、うまくいくものから形にして、遅れているものは適宜フォローする、トリアージにならざるを得ない。
状況も日々変わり、優先順位も変わっていく中で、いかに一貫してビジョンを見せることができるかは、まだまだ成長の余地がある。
久しぶりに仕事で抜かったな、と思うこともあり、この週は反省である。仕事に飲まれてはいけない。
 
日本では海の日で3連休だったのと同じく、ケニアもEidで3連休。週末に片付けないといけない用事があったのだけれど、気分転換もかねてKilifiの北部のリゾート地、Malindiに2泊する。
直前予約で1万2千円、で朝昼晩3食ビュッフェ付き、カフェ・レストラン飲み放題、30ドルのスパ割引という天国のようなプログラムでつい延泊してしまった。
このところ移動やらプロジェクトやらドタバタしていたので、いいペースメーカーになったと思う。場所を変えるだけで、やっている仕事も、考えていることも少しずつ変わっていく。
非連続的な内面の変化には、環境を変えることが第一歩になったりする。忙しい中でも、こういう節目を意図的に作っていきたい。

Komaza 95週目:28歳になる

親とSkypeしていた時に、「仕事もうまくいって、成果も上がって、評価もされて、成長の実感もあって、いいじゃないか」と言われた。
素振りばかりしていた前職の痛みは和らいだとはいえ、もはや成長の実感のためには仕事ができないと思うようになってきた。
成長は自分のためのものであり、自分が認識して満足するだけ。
もちろん、だらだら人生を過ごさないために「成長」を計測して発破をかけることには、特にアーリーキャリアでは意味がある。
 
一方、ミッドキャリアは一般的なスキルの充実から、個別具体的な実績が人生の評価基準に移っていく。
何ができるかを戦力として示すことは、必要かもしれないけれど、その戦力を成果に転換していなければ意味がない。
「三十にして立つ」時期に差し掛かるなかで、何を世に問い、残すのか、ということの方がより本質的だと思う。
この答えに向かって、大学時代から試行錯誤をしてきているわけで、大体の着地点は見えてきた。
仮説を本気で試してみる、というのは変わらないポリシーである。
 
あとは、一見逆説的だけれど、焦ることなく淡々と、根気よく仕事に向き合っていくことができればいい。
この1年は、今までの仕込みの意味が問われるハードな1年になる。
今まで以上に収穫の意味合いも強い。
この1年の結果が、その後の方向性を示すことにもつながるはずだ。
心技体の充実を以て、この時期を楽しみたいと思う。
後悔のない一年を期する。
 
あ、そういえば、結婚やら家族のことなんかもそろそろ考えないといけない齢になってしまった(と言い訳のように書いておく)。