ケニアスタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

屈原「漁夫の辞」

My title
中国最古の選集である文選に採録されたこの短編は、楚の王族であった屈原が讒言により追放された実話に題をとっている。
初めてこの作品に触れた高校生の時は、さらっと読み流してしまったのだけど、正月休みにふとこの作品を目にして以来、頭から離れない。
面白いので解釈について考えてみたい。
 
物語は、歯に衣着せぬ物言いで都を追放された屈原が、出会った漁師の老人に「なぜあなたはこのようなところへ至ってしまったのか?」と問われるところから始まる。
屈原は「汚れ切った世の中で、澄み切った自分は受け入れられなかったのだ」と説明すると、漁師の方は「聖人は表面的な物事に固執することなく、うまく世の流れに合わせて変化するものです。どうしてそんなに物事を考えすぎて、自分を高いところにおいて、自分を追い込んでしまうのです?」と尋ねる。
「穢れと清らかさは共存できないもので、自分まで穢れてしまうなら、いっそのこと死んでしまうほうが良い(実際にこの屈原は投身自殺する)」と突っぱねる屈原に、漁夫は意味深長なほほえみを与えて、「川の水が清らかなら、冠のひもを洗い、川の水が濁っていれば、足を洗う。それでいいではないか」と唄いながら、舟をこいで去っていく。
 
この物語の面白いところは、その先が語られないことで、漁夫がにこりと笑ってから、説話にありがちな「人生というのは~」とか「聖人はそもそも~」とかいう解説が一切なされない。
屈原はそのまま死に向かって進んでいくし、漁夫は歌を歌いながら去っていく。
人生に対する2つの極端な態度が明示されながらも、「正解」を提示されることがない、ちょっと捉えがたい作品だ。
 
自分にとってのあるべき姿に限りなく忠実にあろうとする屈原と、表面的な善悪は適当にあしらいながら世の中を渡ることを勧める漁夫、どちらが正しいのだろう。
中国の古典を読んだことのある人ならだれもが触れたことがある普遍的なジレンマだ。
岩波の新訳を待つ間に、ネットでさらっと論評を読んで回った限り、解釈は基本的に漁夫に好意的で、「極端はいけない」だとか「世渡り上手であってよい」だとかをメッセージとして感じる人が多いらしい。
 
一方、僕は必ずしもこの作品のメッセージは必ずしもどちらか一方に正解を持たせているわけではないと思う。
屈原の清濁を混ぜることはできない、という言葉には「善悪の基準を曲げることができない」という内的な信念の強さと「それを世の中全体にいきわたらせたい」という対外的な願望の強さの両方が含まれる。
対する漁夫の「考えすぎで孤立しては仕方ないでしょう」という問いかけは、必ずしも屈原の潔癖な信念そのもの(前者)を批判しているのではなく、むしろ後者の世の中も自分の信念に従うべき(=世の中は間違っている)という部分について疑問を投げかける。「自分の信念を放棄する必要はないけれど、必ずしも自分が正しいとは限らないし、世の中の些事にいちいち首を突っ込んで反論していたらやってられないよ」程度のものであって屈原の持つ信念そのものを漁夫は認めている。
 
現に漁夫は屈原の「志を曲げるならいっそ自殺する」という言葉には反論せず、笑顔で応えた。
漁夫が最後に残した「莞爾」(にっこりと笑うさま)の意図が軽蔑なのか、承認なのか、がこの文章の最大の鍵である。
相手の思いを汲み取り、激しい反論にも笑顔で応える漁夫の態度そのものが、「自分は自分、他人は他人であり、違う意見であってもいちいち噛みつく必要はないし、自分と同じ意見になってもらう必要はない」という多様性を尊重する姿勢の象徴なのかもしれない。
 
そう解釈するならば、この作品のメッセージは「聖人のように善悪をきちんと弁えることは大切だが、いちいち世間の俗事に気を患わせて、独善的な行動をとり続ければ自分の身を滅ぼしてしまう。考え方は正しくとも、一人でお高くとまっているのが正しい態度なのか?相手のことを受け入れて世間に合わせることも考えないといけない」という意味なのではないか。
内的な善悪と外的な清濁を区別しないと、よくても独善になり、わるければ追放される、そういう意味なのではないか。
「聖賢であっても左遷されてしまうのか?」という意地悪な質問に漁夫はどう答えるのだろう?