気候変動スタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀をしていましたが、気候変動スタートアップを創業するためスタンフォードにいます。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

Komaza 38週目:「万引き家族」から社会課題を考える

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是枝監督の「万引き家族」が衝撃的だった。
ネットで前評判をチェックした時は、「時代を象徴している」とか「日本の暗部に焦点を当てた社会派」だとか、映画の強いメッセージにこころ動かされる人が多い印象だったのだけれど、実際の作品を見た感想はむしろメッセージ性とは真逆。
安直な社会批判や感情の揺さぶりに頼らない、深みのある作品だった。
圧倒的なリアリティと最小限の描写、度肝を抜く構成が全て揃って観客の価値観を揺さぶる、いい映画だと思うので、感じたことを書いてみよう。
 

曖昧さ

世に言う社会派の作品には、現状への強い怒りがあり、何かをしなければならないというドライブがかかっている。
ザ社会小説の大古典、レ・ミゼラブルであれば、飢えを凌ぐためにパン泥棒をして人間としての尊厳を貶められたジャンバルジャンが怒り、ちょっとした職場の諍いから娼婦に身を落としたフォンティーヌが悲劇の象徴として登場する。
映画作品でも、ベトナム戦争の悲惨さを描いた「地獄の黙示録」のような作品に至っては、生々しい暴力シーンの連続で見るものに強烈な印象を与えている(観客は戦争の非人道性を目撃する)。
 
そんな、明確な怒りやメッセージは、万引き家族には登場しない。
 
児童虐待や貧困、高齢化といった今の日本のテーマがあちこちで登場する一方で、直接的なシーンは万引きくらいのものだ。
登場人物にとって重要な出来事でさえも、状況証拠ともいえるシーンをはさんで、本当に何が起こったのかは観客の想像力に委ねられている。
 
感情的にしようとすればいくらでもできたであろうパワフルなシーンを省いたことで、観る者は静かな傍観者としてのまなざしを持つことができる。
それは、激しやすい感情ほど冷めやすいことを熟知した監督の「社会問題は消費の対象ではない」という信念なのではないかと思う。
観客はカタルシスに浸ることを許されない結果、一層映画に引き込まれていく。
 

非合理で無力

この映画の主人公たちは、みんな無力で嘘つきだ。
最初はどこにでもいる普通の家族に思える登場人物も、一人ひとりの秘密が暴かれ、最後には「嘘の共同体」であった家族そのものが崩れ去ってしまう。
きれいごとはなく、弱々しい子どもや優しげなおばあちゃんだって秘密を抱えている。
 
監督のメッセージの代弁者であるはずの主人公は恐ろしく無力で、「こんなことでいいのか?」という社会への問いかけは一切存在しない。
過去の罪から逃亡した夫婦も、万引きをすることに疑問を持った男の子も、自分を疑うそぶりは見せても、決して言葉で社会(や警察)に疑問を投げかけようとはしない。
むしろ、彼らの行動からそうした「こんなことが許されていいのだろうか?」という一般社会への疑問そのものが欠如していることこそ、本作品が取り上げた「無力」を象徴しているかのようだ。
 
自分の過去や生い立ちの不幸をあるががまにかなしみ、知らず知らずのうちに物事を悪い方へ進めてしまう無力な人々の姿。
正義の味方もいないし、彼らの為に手を差し伸べる人も存在しない。
最後に登場する警察や検察といった国家機関でさえ、隠された真実を暴く舞台装置としてしか機能していない。
それどころか、彼らの無邪気な問いかけを通して、こうした社会的強者がいかに自分たちの狭い判断基準でしか、人々を見ることができないのかを観客は体感する。
問い詰められて黙っている主人公たちは、「論破された」のでも「反省している」のでもない、理解されること自体を諦めているようにもみえる。
 
もともとは警察と同じ、社会的常識の代弁者であったはずの観客も、この諦めを追体験することになる。
登場人物の複雑な状況を全部見てきたせいで猛烈なもどかしさを覚え、「そういうことじゃない!」と叫びたくなる。
いつの間にか、強者だったはずの観客は弱者の視点でこの映画をみることになる。
古典的なDramatic Irony(登場人物は知らないことを、観劇者は知っているという演出)を通じて、無力感そのものを観客が追体験するのがこの映画の醍醐味なのかもしれない。
 
 

人の苦しみは明快で、合理的なのか?

貧困を議論するときに、中長期的な利益を考えない、場当たり的な意思決定に原因を求める場合が少なくない。
今でこそEmpathyやDesign Thinkingが開発・ソーシャルセクターに浸透しているが、ほんの20−30年前まで、「被支援者=弱者=教え導く必要がある愚かな存在」という上から目線も珍しいことではなかった。
社会課題を解決しようとして「当たり前」や「社会的正義」を押し付ける側のロジックには、少なからず想像の貧困が潜んでいる。
 
この映画の登場人物は、万引きを始めとする一連の犯罪行為だって、生きていくためにしょうがないことを理由に場当たり的に決めていく。
主人公たちは自分の人生を成り行きに任せているのだ。
「常識的」に考えれば、万引きはいけないことなのでするべきではないし、犯罪を通して偽りの家族を作り上げた主人公たちの判断はことごとく間違っている。
子どもからお年寄りまで、全員がやましさを抱え、自分の傷を隠しながら、身を寄せ合って暮らす集まり。
そこに一元的な正しさ、(課題解決好きが求めてやまない)あるべき姿を持ち込むことに意味はない。
 
主人公たちのおかれた個別の状況は、「社会問題」という大上段の議論ではマクロすぎるし、「たまたま運が悪かったかわいそうな人々」というミクロな同情で処理するには今の社会を象徴しすぎている。
ミクロでもマクロでも捉えきれない、曖昧で割り切れない社会のあり姿を、そのまま露呈させ、古典的な悲劇の技法で観客に追体験させる本作品。
社会課題に携わるものとして、観ておいてよかったと思う。