気候変動スタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀をしていましたが、気候変動スタートアップを創業するためスタンフォードにいます。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

Komaza 32週目: 起業家に寄り添うプロフェッショナルとは

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仕事が延々に終わらない中で書いているので、今週は少し短めです。
スタートアップで、特に林業や農業のように時間がかかり、自然条件にも左右される事業を見ていると、あまりに課題やリスクが多くて、圧倒されそうになることがある。
ファイナンス自体は、言葉のイメージと同じく、ビジョンやミッションといったソフトなアイデアを数字でゴリゴリ詰めていく仕事だ(結果として難しい事業をリスクをコントロールしながら進めることができる)。
そのため、ビジョンと現状の乖離を数字という生々しいもので突きつけられることが日常茶飯事になる。
毎日悪戦苦闘しながら、分析をしたり、計画をしたり、日々出てくる新しい情報を組み込んだりしていくわけで、あまりのめまぐるしさに何のために仕事をしているのか、疑問に思うことだってある。
そんな時に、ただ数字を振りかざして現場に詰め寄ったり、データと理想の乖離を理由にモデル自体に批判的になったりする人もいるんだけど、それは個人的に起業家に寄り添うプロとしては良くないことだと思う(改善余地を見つけて提案するのは組織の文化レベルで重要なこと、ただ、目の前の乖離に戸惑って改善を前提としない単なる「これはダメだ」論が台頭すると、課題解決も進まないし、職場環境も悪化する)。
 
はっきり言って、ファイナンスにせよ戦略家にせよ、参謀が起業家と同じリスクをとることはできない。
起業家は自分の人生とレピュテーションを賭けて、さらには従業員にまで責任を負っているわけで、いくら優秀でも経験があっても、雇われの補佐役とは取っているリスクの次元が違う。
そんな中で、いちいち「オーナーシップ」を自称して事業モデルを批判したところで、溺れている人に泳ぎ方を教えるようなもので、結果的に起業家を救うことにはならない。
起業家が日々思いを巡らせる仮説をある意味無感情に検証しつつ、一方で大切なところだけはしっかり守って諌めていく、このバランスにプロとしての成熟度と矜持が現れるのだと思う。
社会事業は、基本的に「社会」という大きなスケールでのゴールを持つことが多い分、目の前の課題解決との乖離が発生しやすいし、売り上げやユーザー伸び率が必ずしもインパクトに直結しない。
そのせいで、組織内部に事業モデルへの批判が渦巻いて、経営者が孤独になるケースを日本にいる時に何度も見てきた。
海外のカンファレンスでも同じような話を聞くので、ある意味「自分の正義」がはびこりやすいソーシャルセクターの宿痾なのかもしれない。
 
では、組織の中枢で働く起業家の良き補佐役には何が求められるのか。
僕は、今の事業への確信ではなく、事業の出発点への確信なのだと思う。
戦略や戦術レベルで、全て誰もが同意する最善策なんて存在しない。だから、今の事業のあり方に対して、メンバーが批判的になったり、意見が分かれるのは仕方のないことだ。
だが、その事業の出発点となる課題意識、それを変えるために積み重なった実績(努力ではない)、目指すべきビジョンは、いつも北極星になってくれる。
そうしたあるべき夢の姿を自分の中で内在化し、そもそも自分が共感したビジョンを体現する(理解するのでも、納得するのではなく、一貫して表現する)ことが、起業家に共感しつつ、自分の専門性を生かす切り口になる。
言い換えれば、事業が持つビジョンを、自分の言葉・専門性から解釈し直し、それをあたかも自分の事業のように語り続けることができれば、パワフルなステートメントになる。
事業レベルの考えの差異など、ビジョンの前では単なる手段の違いでしかない。
自分なりのビジョンを事業の本来の姿を想像する中で描き、自分の専門性を使って表現することが、起業家に「寄り添う」者の役割なのでないか。
 
起業家に対抗するリーダーになっても、単なる起業家のフォロワーになっても意味がない。
相手を説得するのは下位のコミュニケーションだ。同じ夢をみることができれば、目先の立場や意見の相違を乗り越えたコミュニケーションができる。細かな対立を恐れずに、プロとしての意見を伝えることができる。
起業家と一緒になってパニクってもしょうがないし、かといって他人事では起業家を救えない、ソーシャルエンタープライズの中で起業家に「寄り添う」ための立ち位置のヒントはここにあるのではないかと思う。