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Zeitgeist

留学した後の話。

身の程を知る

「身の程を知れ」という言葉の突き放した冷たさが大っ嫌いだった。

中高でも、大学でも、何度となくこの言葉を投げかけられては、「身の程」は壁にぶつかっていく挑戦者にしかわからないと信じて、がむしゃらに突き進んできた。

あまたの失敗があり、一握りの成功があり、自分という小さな可能性の芽をどこまで育てることが出来るのかを考えながら、この4年間を過ごしてきた。

 

最終学年の前半は、ひどい有様だ。

卒論は事前の調査とは全然違う方向へ進んでいて、一寸先は闇だし、就活も2週間後のボスキャリに向けて毎日不安にかられながら準備をしている。

その中にも、あれやこれやと心配事が飛び出してきて、平和な生活とは無縁である。

そして、こうした過酷な生活を耐え抜くために夏から続けてきたジョギングで、怪我をする。

走るどころか、歩くこともまもならない。「お年寄りの散歩だ」と友達に言われるほど、痛々しい、見苦しい状況。

そして、回復のための治療やストレッチに時間を割かれ、運動が出来ないために気分転換も出来ず、いつもの生活のルーティーンが一気に崩れていく。完全な悪循環だ。

 

幸いにもまだ致命的な影響はないものの、何もかもが思うように行かず、しかもそれが体のことだけに、どうしようもなくやるせない気持ちになる。

そして、風邪でも熱でもない、歩けない、ということの象徴的な意味合いに思いが向く。

歩けない、ということは、生活を制限されるということだ。

行動はいちいち不自由になり、積極的に何かをするどころか、当たり前のことにすら3倍も4倍も時間がかかる。

ベットで突っ張る足をアイシングしながら、自分の無力さを痛感する。

 

ちょうど、小さい頃よく喘息で、息が出来なくて苦しむためだけに生かされているように感じたのを思い出す。

 

生きているのではなく、生かされているのだと、体というすべての根本が揺らいだとき、僕は実感した。

想像力は限りなくどこまでも広げることが出来るかもしれない。

ただ、その発想を宿す僕の肉体には、確かに限界があるのだ。

初めて膝に疼痛が出たときから、もう1週間になる。この1週間にも、いろいろな出来事があった。

今、僕が不自由になる意味は何か、一人部屋で考える。何かを天から思い知らされている気がするからだ。

 

「身の程を知れ」

僕は今そう告げられている気がする。

だが、そこには嫌みも軽蔑もない。それは人間の宿命として、自己の限界を自覚して、たふる限りの力を尽くせとのメッセージに聞こえる。

弱い弱い自分という存在の小ささをはっきりと意識して、そこから人生の次の一幕が始まる。

負けるな、自分。

もう迷いはないのだから。 

この最悪の状況という、恵まれた試練を楽しんで、そして勝ち抜いてこそ、本物。