気候変動スタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀をしていましたが、気候変動スタートアップを創業するためスタンフォードにいます。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

デザイン思考について

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デザイン思考って一体なんだ?

そう感じる人は多いと思う。本でもネットでもニュースでもやたらとカッコいいお兄さん/お姉さんたちが颯爽とデザインしているイメージが流れるにつけ、そもそもデザイン思考ってどういうものなのかと首をかしげたのは一人ではないはずだ。

 

一言で言えば、デザイン思考はユーザーが(本人が気付いているかは別として)もっとも無理なく自然にモノやサービスや場所とふれあえるデザインのことを言う。

機械やシステムに合わせて、使う人間が工夫したり生活を変えたりするのではなく、人間が使いたいようにすでにデザインされているモノを作ろう、という考え方だ。

あまりいい例ではないが、毎朝6時からしか見たい番組がないから、わざわざはや起きさせるようなテレビではなく、みたいものをみたいときに勝手に再生してくれているようなテレビ、というイメージだ。(ううん、やっぱりいい例を思いつかない)

 

こうしたデザインを実現するには、ユーザーが製品に応じて自分を変えるのではなくて、人間がそれにたいして最も自然な形でどう振る舞うのかをデザイン自体に織り込んでおく必要がある。

つまり、物中心から人中心へという流れの中にある哲学なのだ。

ユーザー目線やお客様目線という言葉が使われて久しいが、近年利用が進むビックデータや学際的な人間にかんするノウハウを括って、考え抜かれたデザインは意外と少ない。

 

そもそも、20世紀のプロダクト全体に見られる考え方は、技術中心主義によって裏付けられた功利主義的な妥協を感じさせる。

つまり、

「技術進歩のおかげで、こんなすごいことができるようになった。時代を変える革新的な技術だから、使えるようになっておかなきゃ損ですよ!」

という考え方だ。

 

そもそも技術の進歩自体が人類の目標であった時代には、既存のものが十分かどうかよりも、「新しい=最先端」に重きがおかれた。

だから、初期のテレビはブラウン管が点灯するまでに5分も10分もかかるのを、ユーザーである人間が黙って待っている、なんてことが実際に可能だった。

「ちょっと不便だけど、すごいものだから」そんな感じだったんだと思う。

未知なる物への好奇心と、さらに進化する技術がまぶしかった時代には、技術にたいして人々が自分たちの生活のデザイン(時間の使い方などなど)を変えて行くことを迫られた。

こういう意味で、20世紀のデザイン観には技術中心主義てきな側面がある。

 

では、なぜ20世紀のデザイン観は功利主義的なのか?

それは、一言で言えば、技術力やデザインの不足による「多少の不便」と新しい技術がもたらす「革新的な変化のすばらしさ」を比べてみたら、「ちょっとくらい我慢できるよね!」と結論づけているところだ。

だって、今まで動かなかった写真が動いている!(テレビ)

大好きな音楽をどこでもいつでも聴ける!(ウォークマン)

という感動に比べたら、充電が面倒だとか、友人や家族と話す時間が減るといったことは微々たるものだ。新しい技術をまぶしく感じ、追い求め、自分たちのこれまでの生活の仕方をそれに応じて積極的に改めてきた20世紀には、そういう実感があったと思う。

 

さて、話を戻そう。

 

デザイン思考は、こうした20世紀的な考え方からあらためて、使う人のことを第一に考え、ユーザーがもっとも自然な形でモノや場所を設計しよう、という考え方のことをいう。

この背景にはもちろん、かつてほど科学技術自体がダイナミックに生活を変えることがなくなったことがある。(テレビが1センチだろうが5センチだろうが気にしない)

一方で、iPhoneのように既に普及した技術の組み合わせが大切になるにつれて、「何のために」技術やリソースを組み合わせるのかが問われるようになっているのだ。

せっかく技術も十分進んだわけだし、そろそろ使う側が「人間的」で負担の少ない、無理の少ないデザインがいい、そう多くの人が考えているのではないだろうか。

 

ベストセラーのビジネス書「リーン・スタートアップ」には、従来のように製品を完成させてから世に送り出すのではなく、まずある程度で出来た試作品(プロトタイプ)を市場に出してみて、何度も繰り返しユーザーの反響をみては修正するプロトタイピングの考え方が強調されている。

この根底にあるのは、デザイナーの感性以上に、実際のユーザー体験をデータとして定量的・定性的に分析しながら最終形(もしあれば)を作り上げるという発想だ。

こうした徹底的なフィードバックの反映を通して、究極のユーザーインターフェイスが設計できる、そういう理想像をデザイン思考は提示しているのである。

 

そして、ひょっとすると究極のデザインは、利用者の気付かないところにあるのかもしれない。

利用者が無意識に使えてしまう、それこそが究極の「自然」であり、デザイン思考なのではなかろうか。

そこまで突き詰めると、今世の中にあふれる自称「デザイン思考」のいかに貧しいことか。

デザイン思考は、いわゆる職人的な「いいモノ」とは違うのだということは、肝に銘じておくべきだと私は考える。