気候変動スタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀をしていましたが、気候変動スタートアップを創業するためスタンフォードにいます。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

Komaza 90・91・92週目:ヨーロッパ投資家面談など

本当に忙しかった。3週間ブログをすっぽかしたのは、Komazaに来て始めてじゃないだろうか。
前職の同期から、生存確認のメールまで来てしまった。大丈夫です。生きてます。
一週間ずつ振り返り。
 
まず、90週目。
この週は、月末クロージングに向けて進めていたディールが実は全然進んでいないことが判明し、大慌てで相手側の弁護士と直接やりとりして、複雑な契約をまとめ始める。
入金のタイミングや株主間の合意事項など、細かな日程も考えると、大がかりな交渉を丸っと1週間でまとめなければディール・ブレークとなることが分かり、時差をフル活用して夜中まで連日電話会議に明け暮れる。
ドキュメンテーションは基本的にルール通りにやれば良いだけなのだが、マルチタスクで進めていた社外とのプロジェクトのレビューや、翌週の海外出張に向けての段取りなど、同時並行で進めているとなかなか頭がすっきりしない。
最近はチームがめちゃくちゃ優秀なので、彼らから続々と出てくるアウトプットをさばききるのも、以前ほど自分の作業に集中できない理由かもしれない。
あっという間に週末になり、手荷物だけの軽装で最初の目的地アムステルダムへ向かう。
 
 
91週目:
今回はTAでお世話になっているPartnerships For Forests(P4F)のエキシビション@ロンドンのお招きなので、まずはロンドンのヒースロー空港に到着。
P4Fの善意で、前後のファンドレイズに合わせて早めにヨーロッパ入りしてもいいことになっていたので、ヒースロー空港からロンドン市内へ移動し、ユーロスターに乗ってアムステルダムへ。
CEOとアムステルダムで合流し、夜中までその週の打ち合わせとスライド作成をする。
 
あとは怒涛の勢いで、丸一週間かけてアムステルダムとロンドンで10件近いミーティングをした。
一件一件の投資家面談が真剣勝負で、CEOと事前のすりあわせと事後の振り返りを繰り返し、毎回ごとにメッセージの伝え方や構成を見直す。
高々1日2件ほどなのに、猛烈に疲弊する。
そして、特別ボーナスとして、前週から取り組んでいるドキュメンテーションのクロージングが最終局面で、寝れない笑。
そんなことをしている間にあっという間に、一週間が過ぎた。手ごたえはかなり良好で、これからも謙虚に仕事を積み上げていきたいと思っている。
 
余談:今回は出張と重なったのもあり、久しぶりに週100時間を超えてフラフラだったんだけど、何とかアムステルダムとロンドンで数時間ずつ捻出して、ヴァン・ゴッホ美術館と大英博物館に行ってきた。
ヴァン・ゴッホ美術館は何といっても一人の芸術家の作品をまとまった数、時系列で追うことができるという圧倒的な迫力が特色。
画商から画家に転向し、オランダの大画家たちの作風に影響を受けながら、次第にフランスに集まる印象派に居所を見出し、最後はそこをさらに昇華させて独特の作風に至る一連の説明を見ながら、絵画を鑑賞する。
芸術鑑賞そのものの魅力というよりも、生き方について考えさせられる展示構成だ。
 
大英博物館は、美術館とは対照的。なんだか巨大な書斎のような感じで、地域と時代を主な区切りとして万物が無機的に並べられている。
まるで、昔のGoogleのようで、雰囲気そのものにわくわくした。
こっちはむしろ足早に全体を見回して、おきまりのロゼッタストーンやアッシリアの石像を確認して、つかの間のロンドン観光は終了。
 
 
92週目:
月曜日に急遽入った投資家面談のため、ロンドン滞在を伸ばす。
午前中にかなりいい意味で意外性のある面談が実現し、チームで簡単に祝杯を挙げる。
1週間半、連日の面談とその準備、ミスったら終わりという緊張感でげっそりしたCEOとハイタッチをして別れる。
 
先の便でケニアに戻ったCEOと数時間差のフライトだったので、思い切ってClimate Policy InitiativeとBank of America Merrill Lynchが主宰するセミナーに顔を出す。
約1年前にCPIに賞をもらったのが、会社としても個人としても転換期になった。
相変わらず彼らにはお世話になりっぱなしなので、挨拶をして一路空港へ。
 
ナイロビではいくつか至急の面談があり、それを済ませて早々にKilifiに戻ってきた。
しばらく不在にしていてもチームがバンバン仕事を進めてくれているので、丸一日かけてキャッチアップを済ませ、投資家面談のフォローアップの段取りを組む。
今回はかなり重めのプロジェクトを同時並行することになりそうで、その段取りを早めに考える必要があり、これは今週末と来週頭くらいまで使うことになりそうだ。

初ロンドンなので、しっかりCityも見てきた。

 

P4Fパンフレットも用意して、プレゼンも成功に終わった。

 

初夏の日差しを求めて、ハイドバークで打ち合わせしたりもした。ThinkPad開いて仕事しているKY外国人になっていたはず。

Komaza 89週目:

今週は、大詰めになっていた森林モデリングのプロジェクトと事業の財務モデルのアップデートをオフィスにこもってやり続ける。

手を動かす部分の大半は、外部のコンサルや社内チームが実働してくれているので、自分は全体像をStreamlineしていく作業に集中する。

 

同時進行でパートナーシップや新規事業の支援の会話も並行しており、こちらも一件一件ステークホルダーの利害関係や情報を「裏どり」したりという作業も重ねていく。

クリーンな話ばかりとは限らず、情報目的やスタートアップには負荷がかかりすぎるトリッキーな案件が来たりしないようにバランスを取るのが難しい。

一方で、「忙しいのでできません」では大切な機会を逃してしまうので、ここの判断は毎回頭を悩ませている。

 

そんなことばかり追われていたら、あっという間に一週間が過ぎていった。

結構ポジティブなニュースも入ってきつつあるので、長期戦もめげずに戦い続けられそうだ。

 

週末はその疲れか熱が出てぐったり。薬を飲んで1日20時間寝て回復したので、来週でいくつか仕掛かりのプロジェクトを形にしていきたいところ。

 

Komaza 88週目:投資家訪問の経営インパクト

このところ、仕事についての振り返りがほとんどかけていないので、どうしようか悩んでいる。

Gojoの慎さんのように、うまく出張などと合わせて、フォーマットを作れるのが理想なのだろうか。

ブログとは別に週次・日次の振り返りをしているので、それをうまく転用できないかなどと考えている。

 

基本的に財務とマネジメントという領域は、常にOngoingな会話が複数ラインあって、わかりやすいマイルストーンを祝いづらく、しかも守秘義務もあるから、どうも筆が進まず、言い訳のようにキャリアや業界のネタに偏ってしまっている。

 

さて、言い訳がましく書いてしまったけれども、久しぶりに仕事の振り返り。

先週は大きな投資家訪問(先方がやってくる側)があり、そのための全社プレゼン(事業部門3領域+グロース・ストーリー)を取りまとめる作業と、面談の順番からフィールド訪問のロジまでチーム一丸で取り組む。

気づいたら2週間くらい記憶がないくらい忙しかった気がする。

 

成長中の企業は1か月でがらりと変わるし、プレゼンのあるべきすがたとして、若干の将来像もきちんとまとめ、膨大なデータやメッセージをシンプルにまとめて見せる必要がある。

これはやるたびに事業の解像度と理解が高まり、かつ、各分野のリーダーたちにリソース配分や会社の中長期ビジョンを理解してもらう良い機会になる。

 

これまでは割とCEOと5050で分担してきたこの作業を完全に自分のチームのみでやることになり、燃え尽きそうになりながらも、いい勉強になった。

 

経営陣の理解度や、目線、そうしたものを走りながら合わせていく機関としてコーポレートファイナンス部門には果たせる戦略的機能があり、それを全うするために一方でコーポレート機能管掌役員を採用し、こちら側もチーム体制を絞り上げていく。

シリーズBが調達ならば、その直後に訪れる資本投下のフェーズでいかにSavvyな判断をできるか、その仕込みがすでに始まっている。

今週来週とは各役員と1-on-1で入れて、投資家サイドのフィードバックと次のフェーズに向けたマイルストーンづくりを進める予定。

Komaza 86・87週目:アフリカxインパクト投資業界の課題とアプローチ

ブログで愚痴を書くのは、現実世界と文章の上の二重に疲れるので、基本的にやらないことにしている。
ただ、少なからず”What a misery!”とか”This is a f*cking sh*t show!"とか"Go f**k yourself"とか叫びそうになり(というか叫んでしまっている)ながらやっているのもまた事実。
ただ、怒りを取り除いて考えてみると、こうした「ふざけんな!」的な経験こそが今自分がケニアのド田舎で仕事をしている意味と深いところでつながっているのだと気づかされる。
 

仕事の質が低い:

先進国の金融セクターの研ぎ澄まされたアウトプットや信頼のおけるコンサルタントの分析にお目にかかることはまずない。公的機関や大手のコンサルのアウトプットでも、情報確度が低く、基本的に自分でやり直すつもりで考えないといけない。新興国全般、ベンチャーでもよく聞く話だけれど、割と全方位で神経を消耗することになるし、Delegationとか外部リソースの活用コストが高い(結局自分でやるのに近くなっていく)。こっちの世界にやってきてから、「当たり前」の価値は至高になった。
 

仕事の優先順位が低い:

これは業界の差もあると思うけど、Work = Lifeの投資業界やスタートアップの仕事観は、主流派とは言えない。自分のキャリアや家族との時間など、人としての権利はきっちりと線引きするスタンスを否定するつもりはないけれど、「これはヤバい!」というときに、頼りにできるかどうかはちゃんと考えておかないと痛い目を見る。プロジェクトの納期とクオリティコントロールは最たるもの。ボトムライン設定とリスク管理大事。最近では戦略コンサルや投資銀行出身の若手人材も入ってきてはいるものの、MBA前の研修や激務明けの楽でやりがいのある仕事という位置づけだったりすることも多い。特にミッドキャリア以降のシニア人材ほど、家族の時間などとの両立そのものを目的にして来ていることもしばしば。個人的にはこういう新しい業界で真剣勝負しないのはもったいないと思う。
 

投資目的とリスクテイクの判断基準が不明確:

経済的リターンと社会的・環境インパクトを両立する「ダブル・ボトムライン」がもてはやされても、「二兎を追う者は一兎をも得ず」という警句は間違いなく頭痛のタネになる。開発業界・インパクト業界のファンドは、しばしば総花的なInvestment Thesisを持っていて、二兎どころか10兎くらい追っている。一方で、インパクト投資の世界でも「インパクトと経済的リターンの両立」を求める声が高まる中で、本来的には市場の失敗を補ったり、高インパクト・高リスク資金を投じて業界づくりを担ってきたプレーヤーの投資基準が硬直化していっている印象が否めない。投資目的が総花的であることの結果は、投資判断がかかわる個人の好き嫌いや理解度に影響されてしまうということ。インパクト投資はまだアセットクラスとしての蓄積が小さい分、業界に投資判断と結果の経験値がたまるまではしばらくこのままだと思う。
 

紙の上のイノベーションとインパクト:

資金の出し手がインパクトとして何を目指すのかという、個別の社会的事業のインパクト目標が必ずしも整合するとは限らない。VC業界ではリターンの規模とタイミングの期待値が起業家のExit戦略に影響したりする。経済的リターン一つだけでもすり合わせが大変な中、社会的リターンという個人・投資家ごとに違う物差しを使うとなると収拾がつかなくなってしまう。また、社会的事業は相手にしているマーケット環境がチャレンジングであることも多く、こうした縛りを受けてなお、八方美人なリターンを出すのは容易ではない。普通のファンドマネージャーが経済的リターンだけのために頑張っても、死屍累々の新興国企業投資で、インパクトという追加のアジェンダを持つというのは、なかなかしんどかったりするものだ。また、資金の出し手がパブリックファイナンスに頼っていることもあり、Investment Thesisの時点でかなり検討できる案件が絞られていて、結果的に投資実行が進まない・不本意な案件に投資しないといけないという話も耳にする。アセットクラスがはっきりしないし、成功・失敗パターンもまだまだ蓄積されていない。
 

サラリーマン投資家たち:

総合商社でファンド事業にかかわっていた時にもよく議論していた「サラリーマン投資家」。ファンドの寿命が10-15年といわれる投資業界で、案件づくりから投資実行、Exitまでこなし、さらにファンド1本仕上げるには相当年数がかかる。インパクト投資の黎明期といっても2000年代なので、まだこの層には名門ファンドも名ファンドマネージャーも限られた数しかいない。加えて、PEやVC業界のように、事業経験と投資経験の両方を持っている人材もかなり珍しい。というわけで、サラリーマン投資家が悪いというよりも、そういう人以外がまだまだ少ないことが業界の課題になっている(特に、良い投資家が良い起業家を育てているシリコンバレーなどを見るとここは大きい)。開発銀行やNGOといったパブリックセクター出身者以外に人材の出どころがない、業界の役割やライフサイクルを一通り経験した人材がいない、したがって業界としての人材の幅と層がどちらも薄いというのが、今後インパクト投資を流行ではなく本物のアセットクラスにする上で、一つのチャレンジになる。
 

では何をすべきなのか:

ここまでインパクト投資業界の難しさを書いてきたので、最後はやはり何をすべきかで締めたい。先に挙げた不合理は、投資する側だけでは解決できない。問題は複雑であり、投資する側とされる側の両方で変化が必要になる。変化を支えるのは、専門領域の博士号や新興国投資の実務経験を持つではなく、現場でこうした企業の「中の人」としてカオスをくぐり、事業の「勘所」を理解するプロフェッショナル層だ。
 
偏見を承知で単純化すれば、今のインパクト投資家サイドを支えるのは、ビジネス・金融ですでに「上がってしまった」人たちで、善意は素晴らしくても今更現場で這いつくばるタイプの人は限られている。
一方で、新興国のインパクト投資を受ける側の団体や企業は、大学卒業後のインターン先などとして、「いい経験」をするための若者か、現場で孤軍奮闘している起業家たちが大層で、シリコンバレーのベンチャーのように経験豊富な経営人材も限られている。
近年、2-5年程度を投資銀行や戦略コンサルで過ごし、MBAの前後などにインパクト投資家・事業サイドで仕事をする若手プロフェッショナルが増えている。これは業界にとってポジティブなことなのは間違いないが、今の給料水準やキャリアトラックの幅を考えると、インターンを超えて就職までするケースはまだマイノリティだ。
 
そんな中だからこそ、自分はKomazaで投資側と同等かそれ以上のプロフェッショナルチームを作りたいと思っている。
投資家側よりも企業の近く、というか内側から、事業を理解し、整理し、説明する力。
投資家目線でみて必要な要素や、事業として成長するための経営上の論点を先回りして設定し、社内機関として実行するキャパシティ。
それがあるだけでも資金へのアクセスとグロースへの道筋は変わってくるのではないか。
そういう仮説のもと、Corporate Financeチームを立ち上げ、インフラPE・投資銀行・商業銀行・コンサルなどのバックグラウンドを持つ人材を集めてきた。
事業のBankability・Investabilityを左右するのは、投資側と投資される側の双肩にかかっていると思う。
どこまでいけるか、金融企画者としての意地を見せたい。
 
 
 

 

Komaza 85週目:芸風について

TokyoSwingさんの芸風に関するブログ(「超優秀な若手の悩みと芸風」)がかなり刺激的だったので、感想と合わせてブログを書いてみた。

 

以前のスキル偏重、Box Tickingなキャリア観(通称「スキル君」)批判に続き、スキルの対立概念として「芸風」を掲げる。

コモディティ的エリート主義が横行するコンサルブログ界にあって、深いポイントを突く記事で、とても勉強になった。

 

ここで指摘された芸風については、学生時代からずっと考えてきたテーマで、僕自身としても思い入れが深い。

ただ、この記事では、芸風がどのように発現し、どのように開発されているのか述べられていなかったので、未熟ながら私見を述べてみたい。

 

①芸風の発現:

芸風はおのずから現れる個人の成功法則だと思う。もともとの得手不得手や器用さとも関係するが、何より困難な状況なのになぜか乗り切れた、あまり努力しないのに成果が上がった、などというとき、本人は芸風を発揮しているのだと思う。ただ、芸風と特技の違いは、より無意識的であることで、そこに至る機会の発見、筋道の作り方、クロージングの仕方にいたるまで、何の気なしにやっていることや選択基準が大きく影響する。これを理解するには、自分と向き合うだけではなく、上司や周りから「驚いた経験」を聞いてみるのが良い。そうすると、自分でも思いがけない「驚き」を周りが受けていたりして、この手のフィードバックが自分の芸風の理解に役立ったりする。

 

②「常ならざる世界観」の形成:

世界史で大事をなす人の中には、極貧生活を送ったり、投獄されたり、親族を皆殺しにされたり、働き盛りに大病をしたりしている人物が少なくない。これは、こうした特殊な経験が、普通の人と違う世界観を生むからだと思っている。多様な経験という枠内に収まらない、異常・極限の環境に身を置くことは、その経験を通じた独自の世界観のインプットになるだけでなく、そうした状況を生き抜く上で自然に発現する自分の芸風を見つめなおす契機になる。宮本武蔵の有名な逸話に、吉川一門との果てしない切り合いの末に、有名な二刀流に知らず知らずに目覚める場面がある。統計分析でよく言われる”Crap In Crap Out”の対偶として、ユニークなインプットがユニークなアウトプットの糧になり、インプットの強さ次第ではインプットをアウトプットに変換するフォーミュラ自体(=世界観)もユニークなものになりうる。「苦労は買ってでもしろ」的な成功体験には、極限体験を通じた世界観の理解・変容が関わっているのではないかと思うこともある(たいていは嫌味な自慢だが)。

 

③意識的再現と純化:

「常ならざる経験」を踏まえて、きっかけをつかみ、意識的に再現することも、大切だと思う。ちょっと正攻法とは違う気がしても、思い切って自分なりの世界観を表現する意思決定をし続けることで、世界観の純度が高まり、かつ挑戦の結果得た失敗は、世界観の迫力にもつながる。妄信するのはダメだけれど、思想の純度を意識することは、芸風を個性以上の強みにする上で、大切なのではないかと思う。普通の人のほとんどは、この純化の作業に常識という躊躇いが入っているから、非凡になれない。意識的再現と純化のプロセスは、世間的に見てリスクが高い。それでもやるのか、は善悪ではなく人生の優先順位の問題だ。

 

④芸風は人生を豊かにするのか:

芸風は自己実現をさらに煮詰めた、自己濃縮のようなものだと思う。結果として、非凡な成果につながるかもしれないし、あるいは周りと衝突を招くだけかもしれない。確率的には苦労することのほうが多く、なおかつ濃縮する自己と向き合い続ける覚悟と忍耐がないとただつらいだけになってしまう。覚悟がつくまでは、芸風をどこまで突き詰めるのか、というのを処世術的に考えて線引きをしてみるのもよいかもしれない。個性ありのままを尊重するよう教えられたゆとり世代としては、自分の人生を消耗するレベルまで個性を濃縮するという考え方そのものに割と抵抗があったりする(あれ、だって多様性って社会の構成員の安心と居心地よさのためじゃなかったっけ?)。

 

つらつら生意気を書いてしまったが、今こうしてケニアのド・ベンチャーで四苦八苦しているのも、いい世界観の糧になればと思う。