Komaza 90・91・92週目:ヨーロッパ投資家面談など
初ロンドンなので、しっかりCityも見てきた。
P4Fパンフレットも用意して、プレゼンも成功に終わった。
初夏の日差しを求めて、ハイドバークで打ち合わせしたりもした。ThinkPad開いて仕事しているKY外国人になっていたはず。
Komaza 89週目:
今週は、大詰めになっていた森林モデリングのプロジェクトと事業の財務モデルのアップデートをオフィスにこもってやり続ける。
手を動かす部分の大半は、外部のコンサルや社内チームが実働してくれているので、自分は全体像をStreamlineしていく作業に集中する。
同時進行でパートナーシップや新規事業の支援の会話も並行しており、こちらも一件一件ステークホルダーの利害関係や情報を「裏どり」したりという作業も重ねていく。
クリーンな話ばかりとは限らず、情報目的やスタートアップには負荷がかかりすぎるトリッキーな案件が来たりしないようにバランスを取るのが難しい。
一方で、「忙しいのでできません」では大切な機会を逃してしまうので、ここの判断は毎回頭を悩ませている。
そんなことばかり追われていたら、あっという間に一週間が過ぎていった。
結構ポジティブなニュースも入ってきつつあるので、長期戦もめげずに戦い続けられそうだ。
週末はその疲れか熱が出てぐったり。薬を飲んで1日20時間寝て回復したので、来週でいくつか仕掛かりのプロジェクトを形にしていきたいところ。
Komaza 88週目:投資家訪問の経営インパクト
このところ、仕事についての振り返りがほとんどかけていないので、どうしようか悩んでいる。
Gojoの慎さんのように、うまく出張などと合わせて、フォーマットを作れるのが理想なのだろうか。
ブログとは別に週次・日次の振り返りをしているので、それをうまく転用できないかなどと考えている。
基本的に財務とマネジメントという領域は、常にOngoingな会話が複数ラインあって、わかりやすいマイルストーンを祝いづらく、しかも守秘義務もあるから、どうも筆が進まず、言い訳のようにキャリアや業界のネタに偏ってしまっている。
さて、言い訳がましく書いてしまったけれども、久しぶりに仕事の振り返り。
先週は大きな投資家訪問(先方がやってくる側)があり、そのための全社プレゼン(事業部門3領域+グロース・ストーリー)を取りまとめる作業と、面談の順番からフィールド訪問のロジまでチーム一丸で取り組む。
気づいたら2週間くらい記憶がないくらい忙しかった気がする。
成長中の企業は1か月でがらりと変わるし、プレゼンのあるべきすがたとして、若干の将来像もきちんとまとめ、膨大なデータやメッセージをシンプルにまとめて見せる必要がある。
これはやるたびに事業の解像度と理解が高まり、かつ、各分野のリーダーたちにリソース配分や会社の中長期ビジョンを理解してもらう良い機会になる。
これまでは割とCEOと5050で分担してきたこの作業を完全に自分のチームのみでやることになり、燃え尽きそうになりながらも、いい勉強になった。
経営陣の理解度や、目線、そうしたものを走りながら合わせていく機関としてコーポレートファイナンス部門には果たせる戦略的機能があり、それを全うするために一方でコーポレート機能管掌役員を採用し、こちら側もチーム体制を絞り上げていく。
シリーズBが調達ならば、その直後に訪れる資本投下のフェーズでいかにSavvyな判断をできるか、その仕込みがすでに始まっている。
今週来週とは各役員と1-on-1で入れて、投資家サイドのフィードバックと次のフェーズに向けたマイルストーンづくりを進める予定。
Komaza 86・87週目:アフリカxインパクト投資業界の課題とアプローチ
仕事の質が低い:
仕事の優先順位が低い:
投資目的とリスクテイクの判断基準が不明確:
紙の上のイノベーションとインパクト:
サラリーマン投資家たち:
では何をすべきなのか:
Komaza 85週目:芸風について
TokyoSwingさんの芸風に関するブログ(「超優秀な若手の悩みと芸風」)がかなり刺激的だったので、感想と合わせてブログを書いてみた。
以前のスキル偏重、Box Tickingなキャリア観(通称「スキル君」)批判に続き、スキルの対立概念として「芸風」を掲げる。
コモディティ的エリート主義が横行するコンサルブログ界にあって、深いポイントを突く記事で、とても勉強になった。
ここで指摘された芸風については、学生時代からずっと考えてきたテーマで、僕自身としても思い入れが深い。
ただ、この記事では、芸風がどのように発現し、どのように開発されているのか述べられていなかったので、未熟ながら私見を述べてみたい。
①芸風の発現:
芸風はおのずから現れる個人の成功法則だと思う。もともとの得手不得手や器用さとも関係するが、何より困難な状況なのになぜか乗り切れた、あまり努力しないのに成果が上がった、などというとき、本人は芸風を発揮しているのだと思う。ただ、芸風と特技の違いは、より無意識的であることで、そこに至る機会の発見、筋道の作り方、クロージングの仕方にいたるまで、何の気なしにやっていることや選択基準が大きく影響する。これを理解するには、自分と向き合うだけではなく、上司や周りから「驚いた経験」を聞いてみるのが良い。そうすると、自分でも思いがけない「驚き」を周りが受けていたりして、この手のフィードバックが自分の芸風の理解に役立ったりする。
②「常ならざる世界観」の形成:
世界史で大事をなす人の中には、極貧生活を送ったり、投獄されたり、親族を皆殺しにされたり、働き盛りに大病をしたりしている人物が少なくない。これは、こうした特殊な経験が、普通の人と違う世界観を生むからだと思っている。多様な経験という枠内に収まらない、異常・極限の環境に身を置くことは、その経験を通じた独自の世界観のインプットになるだけでなく、そうした状況を生き抜く上で自然に発現する自分の芸風を見つめなおす契機になる。宮本武蔵の有名な逸話に、吉川一門との果てしない切り合いの末に、有名な二刀流に知らず知らずに目覚める場面がある。統計分析でよく言われる”Crap In Crap Out”の対偶として、ユニークなインプットがユニークなアウトプットの糧になり、インプットの強さ次第ではインプットをアウトプットに変換するフォーミュラ自体(=世界観)もユニークなものになりうる。「苦労は買ってでもしろ」的な成功体験には、極限体験を通じた世界観の理解・変容が関わっているのではないかと思うこともある(たいていは嫌味な自慢だが)。
③意識的再現と純化:
「常ならざる経験」を踏まえて、きっかけをつかみ、意識的に再現することも、大切だと思う。ちょっと正攻法とは違う気がしても、思い切って自分なりの世界観を表現する意思決定をし続けることで、世界観の純度が高まり、かつ挑戦の結果得た失敗は、世界観の迫力にもつながる。妄信するのはダメだけれど、思想の純度を意識することは、芸風を個性以上の強みにする上で、大切なのではないかと思う。普通の人のほとんどは、この純化の作業に常識という躊躇いが入っているから、非凡になれない。意識的再現と純化のプロセスは、世間的に見てリスクが高い。それでもやるのか、は善悪ではなく人生の優先順位の問題だ。
④芸風は人生を豊かにするのか:
芸風は自己実現をさらに煮詰めた、自己濃縮のようなものだと思う。結果として、非凡な成果につながるかもしれないし、あるいは周りと衝突を招くだけかもしれない。確率的には苦労することのほうが多く、なおかつ濃縮する自己と向き合い続ける覚悟と忍耐がないとただつらいだけになってしまう。覚悟がつくまでは、芸風をどこまで突き詰めるのか、というのを処世術的に考えて線引きをしてみるのもよいかもしれない。個性ありのままを尊重するよう教えられたゆとり世代としては、自分の人生を消耗するレベルまで個性を濃縮するという考え方そのものに割と抵抗があったりする(あれ、だって多様性って社会の構成員の安心と居心地よさのためじゃなかったっけ?)。
つらつら生意気を書いてしまったが、今こうしてケニアのド・ベンチャーで四苦八苦しているのも、いい世界観の糧になればと思う。