Komaza 61週目:Noの意味
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投資の大枠(マンデート)に入らないから検討自体No:インパクト投資はまだ未熟な市場なので、スクリーニングやセグメントがあまり機能していない。特にアフリカをはじめとする新興国についていえば、マイクロファイナンスやインフラ投資以外単体でアセットクラスを形成しているものはなく、「インパクト投資家」というくくりで、農業からハイテクまで様々な投資家が散在している。なので、「あのファンドいいんじゃない?」と紹介されて、よくよく話を聞いてみると、実はテック専門とか、ヘルスケア専門とか、デットしかやってませんとかが判明することはよくある。あと、大御所ファンドでも、トラックレコード上でフィットするかと思いきや、国連のアジェンダや業界の流行で投資目的・手段を数年おきに大きく変えていたりするので、一般のPE/VCのようなかっちりしたInvestment Thesisを持った一貫投資の方が稀だったりする。
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きっと成功しないからNo:ここが本来的には主戦場。ベンチャーは、ビジネスのポテンシャルの大きさをと実現可能性を天秤にかけて、起こりうるべき未来へベットしてもらう。真剣勝負であらゆるデータと説明を加えていく。ここで納得されないのは、説明が質的または量的に不十分だから、あるいは事業そのものの可能性をシンプルに伝えられていないから。ここの理解というのは、完成がなく、いろいろな人と話しながら次第に出来てくるものだと思う。この仕事をして意外だったのは、ロジックを詰めきった上でのNoというのが思いの外少ないこと。
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細かいところでファンドの目的にフィットしないからNo:先に述べたマンデートで一致を見ても、インパクトやカテゴリーといったちょっとした理由で、最終的に投資に至らないこともある。これはインパクト投資のように、リターンやビジネス機会以外の個別の目標を持つ場合にはよくある話だ。
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やっぱりわからないからNo:これは最悪のパターン。Not doing your job. とはいえ、こういって去っていた投資家が数年経ってやっぱり興味が出てきて戻ってくることもある。
Komaza 60週目:年末に向けた追い込み
(パワーの源ロブスター)
Komaza 59週目:「西郷南洲遺訓」と事業に学ぶこと
今週はこの2週間毎日睡眠を削って取り組んできた大仕事が無事に形になる。
来週のクロージングでひと段落と思うと、ようやく一仕事という感じ。
今週末は気分転換に、日本から持ってきた西郷南洲遺訓を読む。
西郷隆盛といえば、幕末という時代に殉じた代表的な志士で、明治維新の時流の中で失われつつあった武士の世界観を最後まで貫こうとした人物。
その発言や手帳をまとめたのがこの本で、百ページちょっとなのに中身が重い。
マルクス・アウレリウスの「自省録」を彷彿とさせる、苦悩に満ちた実務家としての哲学がぎっしり詰まった一冊だった。
本書が向き合うのは、本来の目的を見失うことなく、安直な道に逸脱しないためにはどうしたら良いのか、といったストイックな問いだけではない。
愚直なだけを取り柄に成果を無視するのではなく、人を動かして正しい仕事をしながら、まっすぐに生きるにはどうするべきか、そうした職業人(昔なら侍)が向き合ったであろうリアルな問いに対して示唆を与えている。
今は、当時の封建的主従制度とは全く違って、誰もが人生の主人公としてオーナーシップを持てる時代だ。
だからこそ却って、昔のような明確なミッション(例えば主人への奉公)をもつことが難しい。
ソーシャル・アントレプレナーシップの教科書を開くと、起業家がどこかで面倒な目にあったり、社会的な理不尽を目にしたストーリーと合わせて、ミッションあって始めて事業がある、といういかにももっともらしいレッスンが載っている。
けれど、ケニアで社会起業家と仕事をする中で、事業の出発点となるミッションと、事業が成長する過程で明らかになってくるミッションは、質も解像度も全く違っていることを痛感した。
なので、ちょっとイレギュラーな解釈かもしれないけれど、有名な「辛酸を幾たびか歴て志始めて堅し。丈夫玉砕瓦全を愧ず」の一節も、事業を始めた時の志は「志」としてはあくまで未成熟なもので、事業を本気でやる中で直面するいくつもの困難を通して始めて磨かれ鍛えられた本当の「志」が生まれるというように、今の自分は読んでいる。
実際に自分の仕事が社会に対して持っているミッションを理解し、言語化するにはそれなりに時間がかかる。
そういう意味で、人は事業に向き合うことを通じて、ミッションを理解するのかもしれない。
前回の記事と同じく、気になった文章を抜萃しておく。
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辛酸を幾たびか歴て志始めて堅し。丈夫玉砕瓦全を愧ず。一家の遺事人知るや否や。児孫の為に美田を買わず。
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学に志す者、規模を宏大にせずんばあらず。。。規模を宏大にして己に克ち、男子は人を容れ、人に容れられては済まぬもの。
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人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を盡(つくし)て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。
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己を愛するは善からぬことの第一也。修行の出来ぬも、事の成らぬも、過ちを改むることの出来ぬも、功に伐(ほこ)り驕慢の生ずるも、皆自ら愛するが為ならば、決して己を愛せぬもの也。
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道に志す者は、偉業を尊ばぬもの也。
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事の上には必ず理と勢との二つあるべし。。。「理に當って後に進み、勢を審かにして後動く(當理而後進、審勢而後動)」ものにあらずんば、理勢を知るものと云うべからず。
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事の上にて、機會といふべきもの二つあり。僥倖の機會あり、又設け起す機會あり。大丈夫僥倖を頼むべからず、大事に臨では是非機會は引き起さずんばあるべからず。英雄のなしたる事を見るべし、設け起したる機會は、跡より見る時は僥倖のやうにみゆ、気を付くべき所なり。
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變事俄に到来し、動揺せず、従容其變に應ずるものは、事の起らざる今日に定まらずんばあるべからず。變起らば、只それに應ずるのみなり。古人曰、「大丈夫胸中灑々(しゃしゃ)楽々。光風雲月の如く、其の自然に任ず。何ぞ一毫之動心有らん哉。」と。是即ち標的なり。
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毀誉得喪は、真に是人生の雲霧、人をして昏迷せしむ。此の雲霧を一掃せば、即ち天青く日白し。
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誣(し)ふ可からざるは人情なり、欺く可からざるは天理なり、人皆之を知る。蓋し知って而して未だ知らず。
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学は自得を貴ぶ。人徒に目を以て有字の書を読む、故に字に局し通透することを得ず。當に心を以て無字の書を読むべし、乃ち洞して自得すること有らん。
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憤りを発して食を忘る、志気是の如し。楽んで以て憂を忘る、心体是の如し。老の将に至らんとするを知らず、命を知り天を楽しむ者是の如し。聖人は人と同じからず、又人と異ならず。
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真己を以て假己に克つ、天理なり。身我を以て心我を害す、人欲なり。
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心静にして、方に能く白日を知る。眼明らかにして、始めて晴天を知り會すと。。。青天白日は、常に我に在り。
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胸次清快なれば、すなわち人事百艱亦た阻せず。
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人は須らく忙裏に閑を占め、苦中に楽を存ずる工夫を著(つ)くべし。
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遠方に歩を試る者、往往にして正路を捨て、捷径に走り、或は誤って林莽に入る、嗤う可きなり。人事多く此に類す。
Komaza 58週目:人生の転換期と「遠い太鼓」
このエッセーの題材となった南ヨーロッパでの生活は、「ノルウェイの森」で空前の大ヒットを記録する直前の村上春樹の30歳の終わりの3年の出来事だ。
30代から40代に切り替わるとき、漫然と人生を続けるのか、区切りを自分で見出し、小説家として新しいフェーズにギアを入れ替えるのか、という自問からこの旅行記は始まる。
漠然とした違和感を具体的な生活の変化によって、なにがしかの形にしようとした作家村上春樹の学び続け、変わり続けることへの敏感さは、20代後半の僕にも突き刺さるものがあった。
ただ変化を記録するだけではない。
小説家としての自分をいかに励まし続けるか、肩の力が抜けたDetachedな自分と、できることはやってやろうという野心家で楽天的な自分がちょうどいいバランスで垣間見えるのもこのエッセーの魅力だろう。
Detachedなだけではただのヒッピー放浪記だし、野心だけではチープな自己啓発本になってしまう。まるで優れたドキュメンタリー作品を見るような、ちょうど良い距離感がある。
毎日の生活では肩の力を意図して抜きながら、遠くから自分を見つめる眼差しはどっしりと構えている。
自分のフェーズを体感する、あるいは風の音を聞けるようになること。
自分の中にある「芽生え」を自覚的に察知して、開花できる場所まで自らを持っていく力は、才能を幸福に転換するために大切な能力だと思う。
ケニアでベンチャー武者修行中の自分は、この転換期のど真ん中にいるのだと改めて実感した。
村上春樹も、転換期を意味のある時期にするために日本のしがらみを振り捨てて外に飛び出してなお、日々は驚くほどそれまでと変化のない、淡々とした翻訳と執筆に向き合っていた。
転換期だからといって何も特別なことは起きないし、無理やり特別にしようとする焦りこそが、「転換」を妨げる事になる。
僕自身、将来のことを不安に思ったり、行き先を悩んだり、心配事は尽きないけれど、そんな時にこそ日々のルーティーン、当たり前の仕事を新しい環境で黙々とこなす強さを学ぶ機会だと思って、心を定めたい。
以下は気になった言葉の抜萃。。。
- きっかけ
- 日本にいると、日常にかまけているうちに、だらだらとめりはりなく歳を取ってしまいそうな気がした。…僕は、言うなれば、本当にありありとした、手応えのある生の時間を自分の手の中に欲しかったし、それは日本にいては果たしえないことであるように感じたのだ。
- 僕が怖かったのは、あるひとつの時期に達成されるべき何かが達成されないままに終わってしまうことだった。それは仕方のないことではない。
- ある朝目が覚めて、ふと耳を澄ませると、何処か遠くから太鼓の音が聞こえてきた。ずっと遠くの場所から、ずっと遠くの時間から。その太鼓の音は響いてきた。とても微かに。そしてその音を聞いているうちに、僕はどうしても長い旅に出たくなったのだ。
- 異質な文化に取り囲まれ、孤立した生活の中で、掘れるところまで自分の足元を掘ってみたかった(あるいは入っていけるところまでどんどん入っていきたかった)のだろう。
- 小説を書くこと
- 文章を書くというのはとてもいいことだ。少なくとも僕にとってはとてもいいことだ。最初に会った自分の考え方から何かを「削除」し、そこに何かを「挿入」し、「複写」し、「移動」し、「更新して保存する」ことができる。そういうことを何度も続けていくと、自分という人間の思考やあるいは存在そのものがいかに一時的なものであり、過渡的なものであるかということがよくわかる。そしてこのようにして出来上がった書物でさえやはり過渡的で一時的なものなのだ。
- 毎日小説を書き続けるのは辛かった。ときどき自分の骨を削り、筋肉を食いつぶしているような気さえした...。それでも書かないでいるのはもっと辛かった。文章を書くことは難しい。でも文章の方は書かれることを求めている。そういうときにいちばん大事なものは集中力である。その世界に自分を放り込むだけの集中力、そしてその集中力をできるだけ長く持続させる力である。そうすれば、ある時点でその辛さはふっと克服できる。それから自分を信じること。自分にはこれをきちんと完成させる力があるんだと信じること。
- 雨が降っていないときを見計らって、毎日リージェント公園を一時間ほど走った。それくらいは体を動かしておかないと、頭がどこかにイッテしまう。頭がイカないように、体をイカせるのだ。
- 僕はもともと長編小説を書くときは他の仕事を全部放り出して、徹底的にそれひとつに集中するので仕事のペースはかなり早い方である。しかしヨーロッパにいると一切誰にも邪魔されずにすむから、いつにも増して早いスピードで書きあげることができた。この本の中でも書いたけれど、文字通り朝から晩までどっぷりと首までのめり込んで小説を書いていた。小説以外のことはほとんど何も考えなかった。なんだかまるで深い井戸の底に机を置いて小説を書いているような気分だった。
- 長い小説にとりかかると、僕の頭の中にはいやおうなく死のイメージが形成されてしまう。そしてそのイメージは脳のまわりの皮膚にしっかりとこびりついてしまうのだ。僕はそのむず痒く、気障りな鉤爪の感触を常に感じつづけることになる。そしてその感触は小説の最後の一行を書きおえる瞬間まで、絶対に剝がれおちてはくれない。いつもそうだ。いつも同じだ。小説を書きながら、僕は死にたくない・死にたくない・死にたくないと思いつづけている。少なくともその小説を無事に書きあげるまでは絶対に死にたくない。この小説を完成しないまま途中で放り出して死んでしまうことを思うと、僕は涙が出るくらい悔しい。あるいはこれから文学史に残るような立派な作品にはならないかもしれない、でも少なくともそれは僕自身なのだ。もっと極端に言えば、その小説を完成させなければ、僕の人生は正確にはもう僕の人生ではないのだーーー長い小説を書くたびに多かれ少なかれそう思うし、その思いは僕が歳をかさね、小説家としてのキャリアを積むにつれてますます強くなってくるように思える。
- 僕はもう一度小説を書きたいという気持ちになっていた。僕という人間の存在証明はおそらく生きながらえ、書きつづけるという行為そのものの中にあるのだと僕は思った。それが何かを失いつづけ、世界に憎まれつづけることを意味するとしても、僕はやはりそのように生きてしていくしかないのだ。それが僕という人間であり、それが僕の場所なのだ。
- 旅すること・走ること・生きること
- ある種の人々が知らない土地に行くと必ず大衆酒場に行くように、またある種の人々が知らない土地に行くと必ず女と寝るように、僕は知らない土地に行くと必ず走る。「走りごこち」という基準によって、はじめて理解できるのも世の中にはあるのだ。
- 僕らはこのカナーリさんが一目で気に入って、それでこのひどい地下室でもまあいいやと思って、我慢して住みつづけたのだ。世の中というのはそういうものだ。その状況の向こうにいる人間の姿がきちんと見えていれば、大抵のことには我慢ができる。逆にそれほど悪くない状況に身を置いていても、ひとの姿が見えていないと苛立つし、不安になる。
- 「平和のために生きることは美しい。平和のために死ぬことは尊い」
- たっぷり三十分くらい泳ぎ、そしてビーチに横になって眠る。とてもいい気分だ。眠る時にもう一度天安門のことを考える。そして自分が世界のはしっこに一人で取り残されているような気持ちになる。いや、僕はもう既に世界のはしっこからころげ落ちてしまったのかもしれないな。
- でも僕はふとこういう風にも思う。今ここにいる過渡的で一時的な僕そのものが、僕の営みそのものが、要するに旅といいう行為なのではないか、と。そして僕は何処にでもいけるし、何処にも行けないのだ。