気候変動スタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀をしていましたが、気候変動スタートアップを創業するためスタンフォードにいます。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

Komaza 34週目:

ファンドレイズは身体的にも精神的にも辛い。
いろいろな角度から質問が飛んでくるのを、データとエビデンスで返し続ける毎日。
大企業ならちゃんとデータも揃っているところ、オペレーションも日進月歩の状況で出てきたデータをそのまま使えることなんて皆無。
一つ一つ定義をひもときながら、8020で冷徹に取捨選択して回答を作っていく。
VCのようなストーリー投資に加えて、開発業界特有のアカデミックな議論も入ってくるので、論文や各種機関のレポートを勉強する時間も必要になる。
まるでコーポレートファイナンス・事業戦略千本ノック状態なので、ひいひい言いながらも勉強になっている実感がある。
一回乗り越えてしまえば、次回は楽になるのだろうけど、それにしても心がすり減るので、うまく休息と気分転換を取り入れないといけない。
 
来週からは待ちかねていた仲間がチームにやってくる、実務家としてバリバリ仕事をするだけでなく、いいチームを作ることにも頭を使いたい。
いままでは一人で仕事して、一人で燃え尽きればいい、気ままなスタイルだったのも転換期にさしかかっている。
マネジメント経験は皆無なので、ここはあっさり負けを認めて、会社で数百人を束ねるマネジメントのプロにメンタリングをお願いした。
大人数をマネージするというのは、少数精鋭のチームマネジメントとは違っているが、仕組み化とデリゲーションはどんなチームでもパフォーマンスの鍵になるはずだ。
 
余談だけど、ファンドレイズの醍醐味はCEOと一緒にいく投資家面談(CEOがクレイジーなストーリーを語り、僕が投資家目線で補足するスタイル)だ。
一緒に移動する時間にビジネスについて語ったり、投資家に向けてCEOが語るビジョンを経営計画としていかに形にできるか考えたり、良質なインプットの時間になっている。
そんな中で、最近のハイライトだったのが、「DDは形式的な手続きもあってめんどくさいよ」と投資家に忠告されたCEOが言った“A good thing shouldn’t fail because of heavy documentation”という言葉。
正直、しょうもないDD事項もあり本当にめんどくさいんだけど、ドキュメンに限らず、面倒さの塊に気持ちで負けてはゴールは達成できないのだと、気を取り直して少しでも無駄を組織の学びに変えられるように頭を使い、手を動かし続けたいと思う。

Komaza 33週目:本格化する投資家DD

弊社は現在絶賛ファンドレイズ中。
投資家DDに向けたデータルーム作りをひたすらしながら面談もこなしていく。
リスクやらファイナンスやら、オペレーションの論点やらをまとめて整理する文章や簡易モデル、プレゼンを淡々と作成していく。
それに加えて、開発系ドナーへのレポーティングや、グラント関連のデリバリー(新規事業検討資料の提出)なども重なっていて、まさに一刻一秒を無駄にできない状況が続いている。
もともと、プレッシャーは大の苦手だった自分だけれど、火事場の馬鹿力でギリギリのタイムラインに合わせて優先順位をつけ、なんとか全て形にすることができた(今のところである。。。汗)。
 
これまでは経営企画やファイナンスを中心に担当してきた分、現場からの生のインプットを定性的・定量的に分析していく農家への経済的インパクトの試算や各種リスクに対する対応策のメモなどは、とてもいい勉強になっている。
もちろん、本来的にこういう仕事は分析したり、投資家報告で終わらせるべきものではなく、課題解決までフォローすべきものなので、ファンドレイズが落ち着いた暁にはタスクフォース的な関わりもできたらいいなと思っている。
 
あと3週間はこうした作業を続けていくことになるので、現場の知識、適切な論点設定、わかりやすい資料の作成、基本的な足腰を鍛える時期としたい。
若いうちに仕事の足腰を鍛えるべき、とよく言うけれど、結局若手の間であっても本当の「下積み」に近いデータ分析や資料の素案作成といった作業をできる期間は限られているので、面倒くさがらずに貴重な機会だと思って仕事に向き合おうと思う。
これからチームを育てていく中で、自分はもっぱら全体の構成やマネジメントに特化することになるのだから、僕に残された時間は思ったより短い。
 
そういえば、来週からは三菱商事時代の同期で、ファンド立上げや新興国投資もバリバリやっていた仲間がチームに加わる。
ケニア人バンカーと合わせて3人体制になるので、マネジメントの勉強も追いついていきたい。
自分で成長や課題を定義できない人はベンチャーに向いていないと以前書いた気がするが、CEOと毎日直接コミュニケーションをとり、コーポレートファイナンス部門の設立自体を企画した僕に見えている景色と同じものが、彼らに最初から見えていると期待するのは間違いだと思う。
最後は自主的な学習意欲だとしても、適切な方向付けやマイルストーン設定は応援していきたいし、チームメンバーの成功を通じて、目標を達成できるようになりたい。

Komaza 32週目: 起業家に寄り添うプロフェッショナルとは

仕事が延々に終わらない中で書いているので、今週は少し短めです。
スタートアップで、特に林業や農業のように時間がかかり、自然条件にも左右される事業を見ていると、あまりに課題やリスクが多くて、圧倒されそうになることがある。
ファイナンス自体は、言葉のイメージと同じく、ビジョンやミッションといったソフトなアイデアを数字でゴリゴリ詰めていく仕事だ(結果として難しい事業をリスクをコントロールしながら進めることができる)。
そのため、ビジョンと現状の乖離を数字という生々しいもので突きつけられることが日常茶飯事になる。
毎日悪戦苦闘しながら、分析をしたり、計画をしたり、日々出てくる新しい情報を組み込んだりしていくわけで、あまりのめまぐるしさに何のために仕事をしているのか、疑問に思うことだってある。
そんな時に、ただ数字を振りかざして現場に詰め寄ったり、データと理想の乖離を理由にモデル自体に批判的になったりする人もいるんだけど、それは個人的に起業家に寄り添うプロとしては良くないことだと思う(改善余地を見つけて提案するのは組織の文化レベルで重要なこと、ただ、目の前の乖離に戸惑って改善を前提としない単なる「これはダメだ」論が台頭すると、課題解決も進まないし、職場環境も悪化する)。
 
はっきり言って、ファイナンスにせよ戦略家にせよ、参謀が起業家と同じリスクをとることはできない。
起業家は自分の人生とレピュテーションを賭けて、さらには従業員にまで責任を負っているわけで、いくら優秀でも経験があっても、雇われの補佐役とは取っているリスクの次元が違う。
そんな中で、いちいち「オーナーシップ」を自称して事業モデルを批判したところで、溺れている人に泳ぎ方を教えるようなもので、結果的に起業家を救うことにはならない。
起業家が日々思いを巡らせる仮説をある意味無感情に検証しつつ、一方で大切なところだけはしっかり守って諌めていく、このバランスにプロとしての成熟度と矜持が現れるのだと思う。
社会事業は、基本的に「社会」という大きなスケールでのゴールを持つことが多い分、目の前の課題解決との乖離が発生しやすいし、売り上げやユーザー伸び率が必ずしもインパクトに直結しない。
そのせいで、組織内部に事業モデルへの批判が渦巻いて、経営者が孤独になるケースを日本にいる時に何度も見てきた。
海外のカンファレンスでも同じような話を聞くので、ある意味「自分の正義」がはびこりやすいソーシャルセクターの宿痾なのかもしれない。
 
では、組織の中枢で働く起業家の良き補佐役には何が求められるのか。
僕は、今の事業への確信ではなく、事業の出発点への確信なのだと思う。
戦略や戦術レベルで、全て誰もが同意する最善策なんて存在しない。だから、今の事業のあり方に対して、メンバーが批判的になったり、意見が分かれるのは仕方のないことだ。
だが、その事業の出発点となる課題意識、それを変えるために積み重なった実績(努力ではない)、目指すべきビジョンは、いつも北極星になってくれる。
そうしたあるべき夢の姿を自分の中で内在化し、そもそも自分が共感したビジョンを体現する(理解するのでも、納得するのではなく、一貫して表現する)ことが、起業家に共感しつつ、自分の専門性を生かす切り口になる。
言い換えれば、事業が持つビジョンを、自分の言葉・専門性から解釈し直し、それをあたかも自分の事業のように語り続けることができれば、パワフルなステートメントになる。
事業レベルの考えの差異など、ビジョンの前では単なる手段の違いでしかない。
自分なりのビジョンを事業の本来の姿を想像する中で描き、自分の専門性を使って表現することが、起業家に「寄り添う」者の役割なのでないか。
 
起業家に対抗するリーダーになっても、単なる起業家のフォロワーになっても意味がない。
相手を説得するのは下位のコミュニケーションだ。同じ夢をみることができれば、目先の立場や意見の相違を乗り越えたコミュニケーションができる。細かな対立を恐れずに、プロとしての意見を伝えることができる。
起業家と一緒になってパニクってもしょうがないし、かといって他人事では起業家を救えない、ソーシャルエンタープライズの中で起業家に「寄り添う」ための立ち位置のヒントはここにあるのではないかと思う。
 

Komaza 31週目:オーダー机の完成度に感動した話

イマイチだった体調を挽回した週になった。
先週・先々週と意識の高いブログを書いていたものの、新年からずっと走りっぱなしで複数案件並走の状況が続いていたのと、きちんと気分転換が出来ていなかったのとの両方で、考えているのに答えが出ない、仕事にキレが出ない状況が2週間くらい続いていた。
それに加えて今月中に出さねばならないアウトプットの量がハンパではなく、若干絶望しながらパソコンに向かう感じだった。
週前半には、頭の中が完全に曇ったようになってしまったり、一つのことを考えようとすると別なことが不安になって全く集中できないところまで来てしまったので、近場でマッサージができる場所を探してなんとか回復させることができた。
 
世界のどこにいってもサバイブしながら仕事に取り組む上で特に大切なのは、体力と精神力を一定にすることだと思う。
体力については、運動を継続することと食生活に気を使うこと、精神力については追い込みだけでは燃え尽きるので、強制的にリラックスをする場(自分の場合は、マッサージやセーリング)を確保する必要がある。
東京で仕事をしていた時は、運動もマッサージも全部スケジュールに入れて、コンディショニングをしていたのだけど、ケニアに来てからこうした自己管理を緩めたのは反省。
特にマッサージは、基本的に走っていても友達といても仕事のことを考えてしまいがちな自分にとっては重要な息抜きポイント
本当は日常生活でもう少しメリハリを効かせられるのがベストなんだけど、背に腹は代えられないので、当面は体の調整に継続投資することにしようと思う。
激務に耐えられる体づくりプロジェクトも進行中で、いつも読んでいる、SCOUTER COOの記事なども参考に中長期で進めていきたい。
 
モチベーションといえば、もうひとつ。

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(注文から、10日ほどで完成、工房からトゥクトゥクに乗っけてお持ち帰り。塗りたてのニスが眩しい)

4月に新しい家に引っ越してから、自分用のデスクを探していて、近所の木工屋に頼んでいたオーダーメイドのデスクが届いた。
人口5万人しかいない街なのに、こうした木工屋・作業場は何件もあって、その中でも特に仕事が丁寧な店に頼んだところ、期待を上回る出来栄えで感動。
角の揃えや丸めから、接着の角度、材質の立て付けに至るまで、細かな職人技がいくつも見えるいい仕事で、大満足している。
仕事をする時に、「まあ、いっか」と思ってしまう度に、机に恥じない仕事ができているかと自問するだけで、だいぶ勇気をもらえる。
些細なことだけど、気持ちをとぎらせずに、仕事をしていきたいと思う。
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(大学時代から使ってるマグカップ+酒で、武装完了した自宅机)

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(注文書、ざっくりしすぎで最初は心配していた・・・。ちなみに値段は書いてある金額から値切ってますw)
 
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考えることをやめる

考えることを僕がやめたら、何が起こるのだろう。
感受性を最大まで高めて、ありとあらゆる兆候を感じ取ろうとしてピリピリしながら勉強や仕事に向き合ってきた。
同時に、自分のいる場所や役割を理詰めで考え、戦略的に正しい判断を突き詰めながら、自分なりの選択をしてきた。
短期的には悩んだり、憂鬱な気持ちになることがほとんどだったけれど、留学、就職、転職と有意義な挑戦を続けざまにできたのも、挑戦で求めていたものを得られたのも、異常な執念と自分の存在意義にかかわる不安感があったからに他ならない。
 
ただ、こうした仕事との向き合い方には、問題もある。
自分の役割や期待される立ち居振る舞いばかり気にしていては、マクロ的には正しくても、めまぐるしい現実の中で価値を生むことはできなくなってしまう。
シェフを目指して修行する料理人が、何のために自分が料理をするのか悩んで手を止めていては、戦場のように慌しい厨房では使い物にならないように。
 必要なのは、自分を客観視する大きな視点と、日々の成功につながる小さな努力だ。
 
考えすぎて、自分の頭脳に翻弄されるのも愚かだし、正しさばかりを求めて行動の質が落ちるのは、職業人としてダメだと思う。
今の煮詰まり切った自分はまさにそうやって手が動かせない状態にある。
 
背負えないものを背負おうとしていることが客観視できているのに、どうにも割り切れない自分がもどかしい。
さらには、今の自分には失敗することへの底知れない恐怖もある。
向き合っているようで、逃げている感覚。はっきりいって最悪だ。
 
必死に頑張ったのに、蓋を開けたらもともと筋の悪い勝負をしていた、そんな状況になることが死ぬほど恐ろしい。
ひょっとしたら、筋の悪さに気づいたところから新しいアイデアが浮かぶかもしれないのに、僕は「カッコ悪い」打ち手を繰り出すことを恐れるあまり、生身で挑戦してこなかったのではないだろうか。
一見捨て身のようで、自分が本当に恐れているリスクを全く取ってこなかったのではないだろうか。
自分の専門分野にも慣れてきたところで、安全圏、想像の範囲内でしか仕事を受け付けなくなっているのではないだろうか。
立ち止まって考えてみたい。
 
物事の流れが見えること、大きく考えることが得意なのは、僕の強みだ。
とことん考えて、答えが出るまで思考も行動も止めない粘りも、僕の強みだ。
だから普通とは違う選択肢を掴んで、道を作ってこれた。
 
ただ、それが空回りする時がある。日常だ。
日常はただ流れていく。最高の意思決定を時間の流れは待ってくれない、満足のいく思考をすることもできなければ、判断をハラ落ちさせることもできない。
これまでの人生の岐路で悔いのない決断をしてきたように、万全に、自分のタイミングで考え続ける僕のスタイルは、日常という当たり前の世界で全く通用しない。
整然とした学術論文を書くような、すべての段落が一貫したテーマとロジックを持ち、アッと興味を惹くエビデンスや、えぐるように鋭いセンテンスを備えた日常は存在しない。
むしろ、日常はツイッターのように、気の利いた言葉や真新しいものが流れてきつつも、結局は積み重なることも整理されることもほとんどないまま、大半が消えていく。
時間をかけて全体感を掴んで、納得のいくパーツを作り込んでいく作業は、実務家の日常にはそぐわない。
全体感ばかりに頭を使うやり方では、限界が出てきたのだ。
 
人生を旅に例えるならば、この10年間の僕は正しい方向を見定め、そこに向かってまっすぐ歩き続けることばかり気にしていた。
どっちを向いて歩けばいいか暗中模索の年月を経て、今の自分は大体の方向性(テーマとポジショニング)をつかむことができた。
一方でこれまでの僕は、道の歩き方にとことん無頓着だった。
思い切りエネルギーをぶつけて、必要な時に必要な距離進むというスタンスで、行き当たりばったりに、走ったり、息切れしたりを繰り返してきた。
そんなことばかりしていると、靴の中に小石が入ったり、何かに躓いたりする痛みにも無頓着になる。
むしろ「それが旅だ」と錯覚し始め、苦労や苦痛を努力の証と勘違いするようにさえなってくる。
 
行き先がはっきりしてきた今の僕に必要なのは、水平線の向こうのゴールばかり考えるのではなく、今この瞬間の歩き方を工夫することなんだと思う。
まだまだ長い道のりを、力強く、着実に歩き続けるために、根性論から抜け出して、一挙手一投足を最適化することに頭を使いたい。
痛みが成長を生むのではなく、痛みなく成長する環境を作ることで、より遠くまでより早く行けるようになりたい。
大きく考えることも、小さく考えることも、どっちも縦横無尽に出来る最強の自分を想像して、ワクワクしながら進んでいきたいと思う。
ケニアに来て半年目、ようやく手応えのある自分の中の壁にぶつかることができた。
 
ということで、しばらく大局観をやめてみようと思います。
今の僕には割り切れないことも多いので、割り切ろうとも考えず、割り切れないと諦めることもせず、中途半端なまま保留して、目の前の日常をスムーズに、泥臭い努力をエレガントにできるようになりたいと思います。
思いっきりセンチメンタルな内省ブログになってしまいましたが、最後まで読んでいただいた皆様、ありがとうございました。