Komaza 26週目:吉川英治「三国志」を読む
このところ、人生に悩んでいる。
ケニアに来て半年が経ち、仕事も充実して、順風満帆なのだけれど、むしろそれが恐ろしい。
うまくいっているということは、挑戦が不足しているということでもあるし、目の前の仕事に没入する姿勢は、忙しさの上では勤勉でも人生の上では怠惰になりうる。
何を目的に生きるかという大きな問いは、まだ回答が出せていないし、その一部である、社会的事業に対して起業家、投資家、アドバイザーのどの立場から関わっていくのかという役割付けもまた不明確なままだ。
この前のブログでも書いたように、僕には四半期ごとの目標があり、中期で答えを出すべき人生の仮説がある。
まだそれに答えを出すには早いことはわかっているが、何事も真剣に向き合って考え始めないことにはおいそれと答えは得られないので、仕事にも慣れてきたこのタイミングで改めて内省を深めようとしている。
吉川英治の「三国志」を読み始めたのも、ちょうどその頃で、前回読んだ小学生の時とは全く段違いの示唆を得ている。
最近マネージャー的な仕事も増えてきているので、マネジメント本やブログも読みあさっていたが、大所高所からの人事(Human Resourceではなく、Human Affairs)を学ぶには格好の教材ではないかと惟う。
個性をどう生かすべきかという問い
同書の原本は三国志自体ではなく三国志演義なので、もちろん脚色はされているのだろうけど、誰一人として小小翼翼とした優等生として活躍する人物は描かれない。
自分の能力・個性をギリギリまで研ぎ澄ましてキャラを立たせ、ここぞという時に発揮することで歴史に名を残す、そういう世界観が今更ながら新鮮だ。
ビジネス書にせよ自己啓発書にせよ、自分を起点にしてあるべき姿を説明するものがほとんどの今日に、何事もほとんどは歴史上の些事同然にして俯瞰的に眺める三国志の距離感というのは、人生の向き合い方として正しいものだと思う。
社会に阿ったり、命を妙に惜しんだり、自分を変に可愛がったりするのも、この視点から見ればバカらしいものに見えて来る。
正義をいかに実現するかという問い
確か僕が初めて三国志を読んだのは、小学校の読書感想文か何かだったと思う。
その時は、歴史家の視点だとか、正義の多元性なんてか全く知らずに、無邪気に劉備の正義感や桃園の誓いのドラマチックさ、諸葛亮の鬼才に目を見張るだけだった。
ただ、最終的に歴史が劉玄徳を正義にしただけで、実際このストーリーは誰もが勝者になりえ、後世に正義の英雄として名を残し得たのだと思う。
旧来の体制が破綻した時代に、新しい時代のビジョンを描いた群雄達が、各々の正義を主張して矛を交えたこの時代は、なんとエネルギーに溢れているのだろうかと思う。
劉玄徳の正義がたまたま勝ち残って唯一の答えになってしまっているけれど、その過程で描かれ挑まれたビジョンの壮大さとそこに結集した人々の熱量には心踊らされるものがある。
今でこそ、国を統一するだとか、戦争で領土を獲得する、といったことは時代錯誤になりつつあるが、その一方で、ビジネスにおける競争も似たようなものではないだろうか。
優れたビジョンを描き、実現するために自分よりはるかに優れた人物を多数集めて、ものすごい熱量で突き進むというのは、起業家も群雄も変わりないことだろう。
そう考えてみると、こまごました自分のスキルやスペックにくよくよしている自分が小さく見えて来る。
もっと大きな視点で堂々と時代と向き合ってはどうだろうかと自問したくなる。
事業に向き合う役割の違い
三国志の人物というのは、どんなに偉くても何者かの意志に使われている。
曹操や劉玄徳、孫権といった三国それぞれには、軍師あり、戦士あり、能吏あり、それぞれの戦がおこれば必ず彼の地の名士や賢者が出てきて、それぞれが歴史的な役割を担う(それがストーリーとしての歴史というものの常かもしれない)。
主従関係にあっても、君主たるもの、智謀を出すもの、武勲を立てるものという役割は明快で、自分がこの時代にあったらどこに自らを当てはめるべきか、そして重要な局面でどう振る舞うだろうかと想像が膨らむ。
天下統一という一つの事業に対する立ち位置の違い、各人物の立ち位置に合わせた活躍の仕方の違いというのは、キャリアをいかに全うするかを考える現代の自分にも考えさせられることが多い。
そして、使う側・使われる側の上手下手が垣間見えるのは、決して主従関係に限らない。
少し下がって眺めれば、それぞれの群雄の運命もまた、歴史的宿命というものの意志に沿って描かれている。
運命を盲信するつもりはないけれど、幸運・不運というのは事業がどこまでいけるかを決める要素になるものなので、これもまた一人称の成功談とは違う視座を得ることができる。
さて、来週も頑張ろう。
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Komaza 25週目:なぜ日本人が途上国で貧困削減に取り組まなければならないのか?
ちょうど、Komazaに入社して半年になるので、そもそもどうしてケニアのソーシャル・エンタープライズなのか、という問い(考えてみれば、ちゃんと書いていなかった)について、振り返りもかねて書いてみたい。
ソーシャルセクターに対する僕の考え方は、8年前ブラウン大学への願書で書いていた頃から、日本で働いた数年を経て決定的に変わっている。
高校生の卒業式で答辞を読んだ僕は、「日本は国力に見合った貢献を世界の未来に対して果たしているのか?」と問いかけた。
「リーダー不在の国」と言われた日本が、世界第2位(だった)の経済大国として国力相応の責任感を持って自国以外の国と関係を築き、よりよい世界を共に創ることがリーダーシップだと信じていたからだ。
その点、ソーシャル・セクターとの関わりも、こうした「高貴なる義務」の一環として始めたことだった。
一方、今の僕の認識は高校生の時からかなり悲観的なものになっている。
日本の経済力、技術力、ひいては社会的資本が衰退の一途をたどり、世界どころかアジア圏内でもすでにNegligibleになった今、実は日本こそが富める国から貧弱な国へと変わりつつというのを、訪れた先進国・新興国の先々で実感した。
20世紀の開発経済学を支えた、産業を育て、経済を伸ばせば、皆豊かになるという発想には、「豊かになった後」の社会の姿は欠落していた。
アメリカのトランプ政権誕生をめぐる格差の議論など、実は「先進国」と呼ばれる社会にこそ、かつて途上国支援の枠組みで語られることが多かった貧困解消やコミュニティ作り、社会的インフラの整備、金融包摂、行政サービスへのアクセス、といったアプローチが求められるようになっているのである(ちなみに、途上国支援のイメージが強いマイクロファイナンスは、実はフランスやアメリカといった先進国でも活用されている)。
そして、かつては「支援してもらう側」だったケニアを始めとする新興国では、社会の多数を占める若者が続々と起業し、新しいテクノロジーをどんどん活用しながら、身近な社会課題を解決している。
とりわけ、先進国の老朽化したインフラを前提としない、一足飛び(例えば銀行口座を使う前に、電子決済インフラを使う、大型発電所を作る前にオフグリッドにするなど)の社会の発展をLeapfrogging(カエル飛び)と呼ばれ、欧米からも熱い視線を浴びている。
イノベーションといえば、シリコンバレーであるのと同じように、ソーシャル・イノベーションのメッカは新興国にあるのだ(実際、新興国のソーシャル・イノベーションに投資するためのファンドが続々誕生して、欧米の一流起業から数百億円単位で投資を受けている)。
こうした背景を理解するにつれて、かつて日本が世界を救う一助になるためのツールであった、ソーシャル・ファイナンスや技術力は、落ちゆく日本を守るための最終兵器に見えてくる。
日本の経済成長は今後も望めないだろうし、深刻な労働人口現象と高齢化は日本が最後まで守り続けてきた社会のレジリエンスをも蝕んでいくだろう。
そうした絶望的な社会環境を、どう支えていくのか、そのヒントを得るために自分はケニアにいなければならない。
日本で今困難な社会課題に挑み続ける先輩方や同志たちに加わり、未来の日本を導くためにこそ、今僕は日本にいてはならないのだと思う。
なんで日本の国旗を背負って仕事ができる商社をやめて、ケニアなのか?
日本という自分のテーマから逃避しているだけではないか?
途上国と先進国では、ソーシャルセクターのあり方もぜんぜん違う。
そういった問いに少しは答えられただろうか。
Komaza 24週目:
やりたいことのある新社会人へ:3年で会社を辞めるために、入社前にできること
その1:未来の自分に手紙を書く
その2:四半期レビューをする
その3:運命と仮説について考える
Komaza 23週目:
国際機関など公式の場での英語でのスピーチ・質疑応答
留学・進学・就職・転職の時に使えるフレームワーク集
日本企業での経験が海外のスタートアップで生きるのか?という問いへの答え
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