気候変動スタートアップ日記

ケニアのスタートアップで企業参謀をしていましたが、気候変動スタートアップを創業するためスタンフォードにいます。米ブラウン大→三菱商事→ケニア。

ノーベル賞受賞者の発表について

ノーベル医学・生理学賞を受賞した東京工業大学栄誉教授の大隅良典の会見が話題になっていたようなので、印象的だったコメントを引用してみる。

ちなみに、個人的にはブラウン大学の Michael Kosterlitz教授が物理学賞を受賞しているのが胸アツで、同じく物理学賞を受賞しているLeon Cooper教授のクラスを思い出した(ブラウンでは、こうした最高の教授が、1年目の入門編の授業を教えていた)。

Brown’s J. Michael Kosterlitz wins Nobel Prize in Physics | News from Brown

 

野心のタイムライン

今回の受賞が特に注目された理由として、受賞理由となったオートファジーが応用ではなく基礎研究分野であるということが挙げられる。

このことを聞いてから、「目的が応用研究ほど明確でない中で、どうやって方向性をもって20年以上も信じて研究できたのだろうか?」と考えていた。

その答えは、目前のキャリアではなく、5年10年での問題設定らしい。

若い人が少しロングタームでですね、2年間で何するというのではなく、まずは大きな問題設定ができて、こんなことにチャレンジしたいということが5年10年ぐらい先まで若者が考えて。もちろん日々は具体的なことというのに左右されますけど。こういう問題を解きたいんだと若い人たちが本当に思えて、そういうことをサポートするような社会の雰囲気というのがとっても大事なんだと思っています。

IT社会の今日、世界中の情報が専門家やプレーヤー間で同時にやりとりされる。ビジネスだって、世界中のすぐれたアイデアがネットの記事などであっという間に陳腐化する。それだけに、原点を持つことが大切で、それは「現象」なのだとか。

ただ今、生命科学はたいへんな進歩をしていて。例えばオートファジーの論文はこの頃は毎年5,000ぐらいの公表があるという時代になっています。そういう情報のなかで、それを全部自分で消化するなどということは到底不可能だと私は思っています。なので、実際私は、若い人に「自分がなにに興味があるのか?」ってことを本当によく考えてみてほしいということを思います。それは、論文のなかの1つの遺伝子に注目するということでは、大きな問題はなかなか解けないんじゃないかと思っていて。私は自分で現象を見続けたところからスタートしていて。いつもそこに帰れる。私に最初に見た現象は、私のラボでは今でもみんなが顕微鏡で見ている現象で。「いったいなにが起こってるんだろう?」ということに帰れる現象を自分で持っていたというのが、どんなことがあっても続けられた1つのモチベーションだったのかなと思っています。

 そして、それを裏付けるのは、科学自体にゴールはなく、次から次へ湧き出る疑問に答え続ける終わりのない世界だというのは、科学だけに限らないのだと思う。

実際に研究をスタートしてからは、これがノーベル賞につながる研究だなどということを思ったことはほとんどありません。これはもう正直な気持ちとして、そういうことが私の励みになったということもなかったような気がいたします。 科学というかサイエンスというのは実はゴールがなくて。なにかがわかったら必ず次に新しい疑問が湧いてくるということで。

 

サイエンスの役割

とはいえ、ビジネスベースで目的を明確化するプレッシャーは根強いらしく、そうした圧力の中での研究よりも、「社会の余裕」の大切さも強調されてきた。

上述の興味を模索する研究を応援する社会の役割とサイエンスの役割。

科学はいま役に立つことがとっても問われていますが、役に立つというのは非情なもので。役に立つというのが、来年、薬になったということだと、13年後に薬になったというとらえ方されると、本当にベーシックなサイエンスは死んでしまうと思うので。人間の長い歴史の中で、私たちがどんなことを理解していったらいいかっていうふうに思うかということをとても大事にする社会。

 これは実業についてもレベルの違いはあれ、通じるのではないか。

「これをやったら必ずこういういい成果につながります」ということを、サイエンスでいうのはとっても難しいことだと思います。なので、もちろんすべての人が成功できるわけではないんだけど、そういうことにチャレンジするというのが科学的な精神だろうと私は思っているので。

 

日本の研究システムが抱える課題

問題はお金だけではなく、チーム。これは日本企業のイノベーション課題と同じ気がする。そもそもリソースがなかったり、あっても共通のゴールに向けたアラインメントができていなかったり。

日本のシステムは個人研究になっていて、なかなかみんなでシェアしながら共有しながらというシステムができませんね。ケンブリッジにに関しても、私びっくりしたのが、ケンブリッジに行って、ファシリティみたいなのをめちゃくちゃ作って、若い人は何でもそこで使えるというような、そういうことにお金がかけられている。

 

logmi.jp

 

 

www3.nhk.or.jp

事業開発の考え方

マクロでみれば、業界の規模や海外の事例をみて、それと手が届く領域のマトリクスを考える方法。

ミクロで見れば、いろいろなステークホルダーに聞き取りをして、そこから情報をとって中に入り込むやり方。

社外の情報収集もぬかりなく。

やる事が山積している。存分にやる時が来たと確信する。

 

組合のナゾ

入社から1年過ぎた頃から、仕事で「これぞ日本企業!」的なイベントに遭遇する機会がめっきり減っていたのだけれど、今日は久しぶりに新ネタを発見。

いわゆる「労働組合」なるものの委員に選ばれて、会議中ずっとこの「日本的」と言われる組織の中の組織について考えていた。

アメリカとかでユニオンといえば、もう少し闘争的で、利益相反を丸呑みにして経営陣とうまくやっていく為のコミュニケーションツールとして機能している日本の労働組合とは趣が違う。

しかも、聞けば日本における組合経験者は、出世コースとされているというから、未だに冷戦時代のアレルギーが残るアメリカ資本主義社会から戻ってきた自分にはかなりのカルチャーショック。

とはいえ、無駄な組織がただ残るということもないと思うので、いくつか「なぜ組合が日本企業で求められるのか?」というお題で考えていたことを書いてみる。

※多分に他社の友人から聞いた話や本で読んだ話もあるので、うちの会社とは直接関係ないことは強調しておく

 

その1:シニアと若手のコミュニケーション

360度評価が一般的ではなく、仕事の責任関係も曖昧な日本企業において、偉くなればなるほど現場の生の声から遠ざかっていくことはさけられない。

そんなコミュニケーションの断絶の中で、日々意思決定をするときに、組合であれば、事前にリスクを取らずに壁打ちする相手になりうる。

まさか普段上下関係をひっくり返して、部下に意見を求めるわけにもいかない、体育会型の組織ほど効果があるのではないかと思う。

組合対経営陣という図式はかつては健全な対立からバランスをとるものだったのかもしれないが、歌舞伎や茶道と同じく「立場」と「型」としての「対話」はかつての熱気を失って、むしろ普段は上下にいる人間が対等な立場を演じるロールプレイになっている。

また、ロールプレイであるからこそ、組合の場での率直なやりとりは、普段の仕事での上下関係に影響せず、権威も損なわれない。

経営陣からすれば、安心して様子を探れる便利な場所なんだろうな。

組合員からの「質問原稿」まで作ってくれる気のきいた組合もあるというから興味深い。

 

その2:社内ネットワークの場

ロールプレイとはいえ、普段は雲の上の役員やら上司やらと会社のあり方について率直に話せる場は若手にとっても貴重な場になるはず。

会社の方針などについて、生の話が聞けるというのもそうだし、中間管理職をすっ飛ばしてお偉方と交流できるのは若手にとっては魅力的な機会となる。

加えて、組合が大好きなアンケートやイベント、特別企画の類は、専用にフルタイムの人がつくのも一般的らしいので、普段は部署の垣根を越えない会社でも、そこの担当者同士としてなら自分の属性をいったん離れてネットワークを広げられる。

社内に知り合いが多いことは、終身雇用の日本企業においてはすぐさま強みになる。

 

その3:才能発掘の場

最後に、こうした会社の縦と横の人脈をつなぎ、普段断然しているコミュニケーションを補う組合の場は、会社にとっては才能発掘の場にもなる。

そこでは人望が評価されるだけではなく、時には経営上・人事上のきわどい施策に対して、経営陣と一般社員の利害の仲裁者として「大人の対応力」が求められる。

もちろんこれは利害代表というよりは、折衝なのはいうまでもなく、組合のトップともなれば何十年も年次が上の経営陣の部屋にも自由に出入りして交渉を行う。

ここで実力(いい感じに空気を読みつつ、若手をまとめ上げるサラリーマンスキル)を認められれば、会社としてその人にいいポストが行くのは当然とも言える。

 

会社から見れば、優秀そうな若手に仕事を任せるわけにはいかなくても、管理職が制度上入ることを許されず、平均年次の若い組合という場なら、自由にやらせてみても害はないのだろう。

 

と、妄想をしてみた。ほぼ、山崎豊子の「沈まぬ太陽」のイメージに流されているので、別に自分の会社がどうとかではないことだけはご承知あれ。

沈まぬ太陽〈1〉アフリカ篇(上) (新潮文庫)

沈まぬ太陽〈1〉アフリカ篇(上) (新潮文庫)

 

 

 

 

 

MITオンライン授業で共同プロジェクトはできるのか?③_反省編

月曜日からずっと書いているMITのフィンテック講座。今日の正午がMITのクラスの課題締め切り。

初のグループワークは絶望的な状況からなんとか巻き返し、チームの底力もあって無事に今朝一番には全員のタスクが完了して、課題を提出できた。

とにかくフルタイムで仕事をしないといけない中で、こんなギリギリは一歩間違えれば確実に致命傷になっていたと思うと、やり遂げた感覚よりもむしろ反省ですね。

 

間に合わせる為にやったことは炎上マネジメントのほぼ定石で、できるところから人を巻き込んでムーブメントにしていくという感じなのだろうけど、ここまで見ず知らずの人とプロジェクトをするのにかなり無警戒だった自分に対する反省もあり、そもそも炎上させないためにどうしたらいいんだろうということを考えている。だって、炎上させたらプロジェクトマネジメントじゃないし。

 

反省編:締め切りより早い段階で作業の割り振り・見通しをつけておくべきだった

コースの紹介部分では一週間あたりの平均コミットは10−15時間と書かれており、それなりの時間をクラスに振り向けることを前提に参加している。

僕自身も基本的に座学は土日にやって、足りない分は平日のランチ時間や帰宅後に時間を作っていた。

課題の提出は一週間ごとなので、日々追われることになるのだが、面倒なことに次の週のレッスンは提出の一週間前まで公開されない。どんな課題をやるのかは毎週水曜日にならないとわからないのだ。

とはいえ、急な用事や他にもやらねばならない仕事関連のタスクは山積みなので、少しずつ作業が遅れて気がつくと仕事のあとに睡眠時間を削る羽目になる。

 

個人ベースの課題はこれまでも毎週出ていたのだけど、「えいやっ!」でやりきる個人技が通用しないだけに、翌週の課題がでたらすぐにコラボの手配をすべき。

 

明日はプログラムとか、オンライン授業で共同作業をするメリットとデメリットについても書いてみたいと思う。 

 

オンライン授業で共同プロジェクトはできるのか?②

昨日に続き今日も残り12時間ほどに迫った締め切りに向け、見ず知らず、所在国もバックグラウンドも違うメンバーがいきなりプロジェクトをできるのかを考えてみたい。

昨日の記事を投稿した時は、「もうこんなの無理だー!」と正直投げ出しかけていたのだが、さすがにこのまま黙ってうん十万の学費をどぶに捨ててしまうわけにも行かないと我に返って、いろいろと試してみた。

試したこと1:とりあえず、メッセージ機能を使って全体・個別に再度声をかけてみる

週末に全体のディスカッションページにポストしたのに返信がこなくて挫折していたので、今度はチャネルを変えて、個別メッセージ機能で投稿してみた。 

試したこと2:返信がきた一人と深夜の電話

 期日が迫ってヤバイ!と感じていた香港の参加者からリプライが来て、まだあまり読めてないのだけど、確かにヤバイよね!というメッセージが来る。

ということで、課題の現状確認と次にやるべきアクションを確認するため、急遽電話会議。

全体フィードで議論しても良かったのかもしれないけれど、時間がかかるのがじれったいので、とりあえず電話。国際電話は高いので、Whatsappを使用(自分のタイムゾーンはアジアの参加者が多いせいか、Whatsappが人気のよう)。

 

試したこと3:集団の意思決定を勝手に決めてしまい、共有ドキュメントも作ってしまう

今回の課題は、いくつか提示された候補の中から面白いフィンテックベンチャーを選んでリサーチするもの。

週末全体のディスカッションページにどれにしようか聞いても特に返事ないので、先ほどの電話中にノリと勢いで決めてしまう。

そして、レポートをみんなでかけるよう、役割分担のドキュメントと、レポート記載用のドキュメントを、グーグルドライブで共有。

 

試したこと4:もう一人の人に煽ってもらう

電話した相手はグーグルドライブに不慣れということで、代わりに個別メッセージ でまだ会話に入ってきていないメンバーをどついてもらうことに。

フィードは彼と僕のやりとりで埋まるんだけど、徐々に人が集まってくる。

 

結果:なんとかキックオフ←イマココ

協力してくれた香港の参加者のおかげで、なんとかプロジェクトが始動。

あとは今夜か明日の早朝に全員のアウトプット(すでにグーグルドキュメント形式で保存)をワードに変換して提出するだけ(やってないやつとかでそうで非常に不安なので、アサインメントを一人くらいやらなくてもなんとかなるように若干タスクを被せているのが功を奏することを祈る。祈る。祈る。)